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かなり走った。閑静な公園の中に入った。ここなら車は来ないから。
オレが止るとピカは苦しそうに肩で息をし、屈んで下を向いていた。
「大丈夫か、ごめん、急に」
その背中をさすろうとした。
「あたしに触らないでっ」
それは鋭い一喝だった。犬を撫でようとしたら、それはトラでいきなり吠えられたかのよう。怯んだ。
「あ、悪い。あたし男性恐怖症なんだ。男の人にさらわれると怖くて・・・・」
「え、でもオレは手を繋いで走ったぞ」
「うん、びっくりした。おっさんに手を掴まれても怖くなかった。不思議だな」
「ピカチュウ」
オレがそういうとピカが笑う。
「あたし、相原ひかりっていうんだ。光だからピカ。ピカチュウじゃない」
「あ、そうか。おかしいと思った」
アハハと笑った。ピカも笑った。その笑顔がまだあどけない幼さもみせていた。
「オレは東山智樹。一応、そういう名前がある。けど、おっさんでいい」
「じゃ、おっさん」
簡単にそう言われた。おまえ、オレの名前、覚える気ないだろう。そう突っ込みたかったが、まあ、別にそんなことはどうでもよかった。
ピカがその広い公園が見渡せるベンチに座る。オレもその隣へ腰かけた。
いいんだよな。これで、一人の少女をすくったってことだよな。そう思うとなんとなく、オレは胸が熱くなった。
ピカがオレの手に触れてきた。
「ほんとに不思議。なんでおっさんには触れるんだろう。今まで触られるって思うだけでも鳥肌が立った。自分から触ることもできなかった」
「オレがおっさんだからだろう」
そう言った。
「違う」
そう断言的な言い方にオレはマジマジとピカを見た。
「あのさ、あたし、おっさんのこと、知ってた。あたし・・・・・・」
「えっ」
「もう三年くらいになる。中学の入りたての頃、犬に咬みつかれそうになった。泣くほど怖かった。そこへおっさんが来て、鞄を振り回して助けてくれたんだ。覚えてない?」
「ん・・・・。そんなこともあったかな」
残念だが、まったく覚えていない。あの頃、いつもオレの意識は別の世界にいた。
「あたし、前にこの近所に住んでた。だから、時々おっさんのこと、見かけたんだ。全然、気づかれなかったけど」
苦笑交じりでそう言われた。
そりゃそうだ。中学生には関心はない。
「そっか、オレが助けたのか。オレ、昔はしっかりしてたんだな」
「えっ、どういうこと」
「今のオレ、自分でも情けない。無気力で、大学卒業してもやりたいことがわからない。せっかく親のコネで入った会社も嫌になってやめちまった。弱虫で、あんなふうに高校生に絡まれても言い返せない不甲斐ない男だ」
そう、バイト先で女の子たちにそう言われていた。自分でもそう思う。
けど、ピカは違った。真剣な顔で反論していた。
「そんなことない。言い返せないんじゃない。返さないだけ。それだけ我慢強いんだよ。すぐ切れるやつらよりずっといい」
オレは驚いていた。そんなこと言われたのって初めてだったから。
大学の時、つきあった彼女にも意気地なしとか、何を考えているのかわからない優柔不断な男と罵られ、フラれていた。
オレ達はベンチに座り、見たままの景色のこと、テレビ、映画の話。天気、政治経済の話までした。ピカはこんな格好をしているけど、驚くほど世の中に精通していた。自分の意見が言えるってことはすごい。しかし、オレもピカも自分の私生活のことは一切話さなかった。
そこには触れられたくない、それを話すと現実に戻ってしまうそんな恐れがあったからだ。
ふとピカがやっと気づいたらしく、言った。
「なあ、なんでおっさんは急にあたしを連れて走ったんだ?」
とっくの昔に聞かれていても不思議ではなかった。ピカはオレがその時の中学生だと気づいていたと思ったらしい。しかしそうではない。
「あ・・・・・うん」
オレは誤魔化すこともできた。けど、ピカには嘘をつきたくない。ピカは利発だ。オレに下手な嘘を見破るだろう。曖昧に誤魔化して、ピカに信用されなくなるかもしれないのだ。
信じられないだろうが、真実を述べることが大事なんだと思う。
実は・・・・・・翔のこと、そして事故の目撃、時間を巻き戻したことすべてを打ち明けた。
ピカは黙って聞いていた。嘘だとか、信じられないなどという言葉も吐かなかった。驚きの顔をしていたが、何も言わない。自分に何が起こったのかを受け止めようとしているのかもしれない。
「嘘だって言ってもいい。オレだって信じられないんだから。今はピカが無事でいる。それでいい。あっちの事故の方がおかしかったんだ」
「うん」
ピカがそう言った。
再び、だんまりが続いたが、やがて小さな声で「ありがとう、おっさん」と言った。
ピカがしばらく黙ったままだった。まあ別にかまわない。実はさっき、事故にあったから、時間を巻き戻したなんて言われてもそう簡単に受け入れられないのが普通だ。
そう思いながらも、オレの人生、最初からやり直そうかななんてことを考えていた。少なくとも今の現状の自分には満足していない。満足どころか、外へ出たくない、人と係わりたくない。でもそれじゃいけないと思うし、喰っていけないからな。いっそ、どっかのお金持ちのお嬢さんをひっかけて、楽して過ごせればいいなんて思うが、今のこんなオレには誰も振り向きやしない。
ピカがなにかを決意したように顔をあげた。
「ねえ、おっさん。頼みをきいてくれ」
「あ、いいよ」
「キスしてくれ」
「うん、・・・・・・えっ今、なんて言った?」
キスしてくれって・・・・。周りを見回す。それほど人はいない。ピカは制服のままだし、それにしてもやばいだろう。
「あたし、男性恐怖症だって言っただろっ」
「うん」
「男の人に触れられるの、怖い」
「うん」
確かにそう言った。
「けど、おっさんは大丈夫だった。だから、確かめてみたい。それが治ったのかどうか」
なんだ、ピカはオレのことを好きになって、キスしてくれって言ったわけじゃなかった。ただ、確かめたかっただけなんだ。少しがっかりしたが、まあ納得だ。
よし、頑張るぞ、こんなチャンス、滅多にない。
ぐっとピカの肩を抱いた。もうそこでピカの顔に恐怖が走る。あっと思ったときはオレは後ろへ押されてベンチから転げ落ちた。
「うわあ、イテっ」
「あ、ごめん。おっさん、大丈夫?」
ピカが泣きそうな顔になっていた。もしかするとという期待感があったらしい。けど、だめだった。
オレは体を起こして、再びベンチへ座る。
「なあ、聞いてもいいか。どうして男性恐怖症になったのか」
何かトラウマがある。それを取り除くには、その原因になったことは何かを知った方がやりやすい。
心に傷があったらしく、ピカは目を伏せた。話したくない様子。
「あ、いいよ。ごめん、変な事聞いて」
「実は・・・・」
ピカがぽつぽつと話し始めた。
「親父だよ。あたしの親父のせい。あいつさえ、……チクショウ」
ピカの肩が震えている。
「あいつに襲われたんだ。中学二年の夏、おっさんも聞いたことがあると思う。この辺じゃ知らない人はいない。父親が娘に暴行しようとした事件」
オレは知っていた。
二年前の夏、オレの祖母ちゃんがうちに来ていて、その話をしていた。父親が、母親のいない夜に娘を襲おうとしたって。
「まったく、鬼畜のしわざだよ。親が娘に手を出すなんてみんなを不幸にする。その娘も一生傷を負う。親と子はね、年頃になるとお互いの体臭が嫌な臭いに感じられるようになっているらしい。それでお互いに距離をおくようにできている自然の法則なんだ。でも今は、デオドラントとか臭いを消してしまう。だから、近親相姦なんてことが起こるんだ。動物だって、やらない」
今思うと、祖母ちゃんは深いことを言ったが、当時のオレはへえ、やばいなとしか思っていなかった。
それよりも祖母ちゃんちのうさぎ、初めはつがいの二羽だけだったけど今は十羽ほど檻の中にいる。祖母ちゃんは単純に増えたって喜んでいるけど、あれは近親相姦だって言ったら、小突かれた。
ピカが泣いていた。くだらないことを思い出している場合じゃなかった。
「なあ、おっさん。あの時に戻って行って、親父、ぶん殴ってくれ」
あの時って、・・・・それはピカが襲われそうになったあの時か。
オレはごくりと喉をならす。
そうだ、オレにはそれができる。ピカが襲われる前にその親父をぶん殴ってやめさせればいいんだ。
そうすればピカの心の傷が治るかもしれない。
「わかった。やってみる」
そういうとピカの目から大粒の涙がこぼれた。その涙は黒い。化粧、半端じゃないからな。
でもそんなピカが無性にかわいくて、そのくちびるにちょこんとキスをした。
隙をついて奪うようなキスだったが、ピカが目を丸くし、やがてにっこり笑った。
「初キスだぞ。おっさん」
責任とれよと言わんばかりの口調で言った。