藤田徹 -意思-
「いらっしゃいませ、大変お待たせいたしました」
レジに並んでいたお客さんの対応を終え、西村さんの順番となった。彼女は手に持っていたお茶とお菓子を台の上に置き、僕はそれを順番に機械に通していく。何故か彼女の顔をまともに見ることが出来ず、僕は必死で目を逸らす。僕は彼女ともう一度会ってみたい気でいたけれど、彼女はどう思っていたのだろう。正直なところ、僕が何故彼女とまた会いたいと思っていたのか、その答えはよく分からないでいた。ただ非日常的な出来事を共有したことで、妙な親近感を抱いていたのは確かだ。それが一方的なものなのか、それとも彼女も同様に思っていたことだったのか。彼女もそうであれば良いな、なんてことは僕の期待に過ぎないことなのかもしれない。商品はたった二つしかなく、僕の作業はあっという間に終わってしまった。もっとたくさん商品を買ってくれたら、もう少し時間が稼げたというのに、と唇を噛む。稼いだところで、何が出来る訳でも無いのだけれど。
「九十八円が一点、百八円が一点でお会計、二百六円になります。袋はご利用ですか?」
「ええっと、お願いします」
彼女の要求に応じ、僕は台の下からレジ袋を一枚取り出した。お茶とお菓子を袋に詰めて、そして彼女が財布からお金を出し終えるのを待つ。ちょうどお金があるのだろう、彼女はお札を出す素振りを見せることはなく、小銭入れに指を突っ込んでゴソゴソと必死に格闘していた。なかなか小銭を取り出すことが出来ないのか、随分と時間が掛かった。もしかすると、彼女もまた僕と会いたいと考えていて、時間を稼ごうとわざとやっているのかもしれない。だがそれは僕の希望的観測に過ぎないのであって、彼女が僕みたいなブサイクな男とまた会いたいなんて考えているとは到底思えなかった。男とは馬鹿な生き物だ。たった一度出会っただけの女の子と、また話せたら良いななんてことを考えている。それは最終的に恋人となることまで期待している訳ではなく、ただそうするだけで気持ちが上向くという、ただそれだけの理由だった。こんな極端な言い方をしてしまうと、世の中の女性は興醒めして、やっぱり男ってサイテーと右の頬にビンタを喰らわせられてしまうのかもしれない。右の頬を打たれたら左の頬も差し出すような、そんなキリスト教徒のようなことは出来ないけれど、それは決して悪い意味でそう考えている訳では無いのだ。お茶を置き忘れ店を出てしまった彼女が、最後にはしっかりお礼を言ってくれた、それがとても嬉しかったのだ。同じような事態に遭遇したら、誰もがお礼を言ってくれるとは限らない。わざわざこんなところまで走って届けてくれなくても、とドン引きされたっておかしくないし、場合によっては西村さんを捉えてくれたおばちゃんのように紛らわしいと怒鳴られたって仕方がなかったと思う。それなのに彼女はお礼の言葉を述べて、深々と頭を下げてくれた。諦めなくて良かった、追い掛けて良かったと心から思えたのは、彼女が満面の笑みでそのように応じてくれたからであって、普段は感じることの出来ない喜びを感じさせてくれたことで、またそんな嬉しい出来事があるんじゃないかと、言うならば甘えてしまっているところもあったのだろう。要するに、とても嬉しかったのだ。だから、彼女と接することでまた嬉しい気持ちになれるんじゃないかと、そう思ったのだった。
「お願いします」
ハッと我に返る僕は、小銭受けに入れられた二枚の百円玉と六枚の一円玉を丁寧に拾い上げた。お釣りを返す必要はなく、レシートが吐き出されたら彼女との時間ももう終わってしまうことになる。それが妙に切なくて何か彼女に声を掛けようと思うのだが、バイト中の身であるということもありそんな勇気はふつと湧いてこない。ゴクリと息を飲んで、レジスターの中の定められた場所にお金を仕舞った。嗚呼、だから僕にはずっと彼女が居ないのだろうな。ブサイク以外の理由も、きっと大いにあるのだろう。僕は今更になってそう気付かされた。レシートを受け取らず、彼女は店の入口へと向かって歩き始めた。ゴロゴロとキャリーバッグを引っ張っていく。そのキャリーバッグの存在に、ようやく僕は気付く。あれだけ大きな荷物を抱えていたというのに、それに気付かない程僕には余裕が無かったのだと知り、少し情けなくなる。今年卒業すると述べていた彼女と、そして三月も下旬というこの時期であることを考えると──おそらく、彼女はこの街を離れて暮らすのだろう。だとすると、彼女がこの店に訪れることはもう二度と無いのかもしれない。そう思ってまた言葉を掛けようと思うのだが、何も言葉が見つからなかった。いつもならありがとうございました、と声掛けくらいするところなのだが、それすら言葉に出来ず、僕は立ち尽くす。ハァと溜息を吐いて視線を落とすと、レジの台にレジ袋が置かれていることに気付き、心臓がドクンと脈を打った。西村さんは、また購入した商品を置いて帰ったのだ。バッと顔を上げて、店の入口を見る。西村さんはちょうど店を出たところだった。彼女はやはり、とんでもないドジっ子なのだろうか。いや──ひょっとすると、彼女も同じような気持ちで居たのかもしれない。こうすれば、また僕が彼女を追い駆けるだろうと、そう考えてわざと置いて帰ったのではないだろうか。仮にそうであったとしても、そうで無かったとしても。今の僕には、これからの行動の選択肢は一つしか無かった。次の瞬間には、僕は走り始めていた。左手には、青いアルファベットでコンビニの名前が綴られたレジ袋を掴み、僕は走る。急な出来事に隣のレジを担当していた先輩が目を丸くしていた。
「すみません、忘れ物届けてきます!」
僕がそう言うと、先輩は戸惑いながらも頷いた。自動ドアがなかなか開かないのをもどかしく感じながら、ようやく体一つ分くらいの隙間が出来た所で勢い良く店を飛び出す。
「お客様!」
大声で呼び止めると、道行く人が驚いて僕を振り返った。数十メートル先を進む西村さんも僕を振り返る。僕はもう一度、大きな声で叫んだ。
「お客様、お忘れ物です!」
今度はしっかりと理由を述べ、彼女の元へ駆け寄った。西村さんは苦笑いで僕が追い付くのを待った。
「何度も、本当にすみません」
深々とお辞儀をする彼女に、僕はレジ袋を差し出した。受け取った時に触れた彼女の指は冷たくて、僕はまたドキリとする。ぎこちなく笑うのを見て、やっぱりレジ袋を置き忘れたのはわざとだったような気がした。
「今度は、逃げなかったですね」
僕が言うと、西村さんは笑った。
「忘れ物って、教えて頂きましたから」
「同じ過ちを繰り返すわけにも行きませんしね。あ、そうだ、この間の百五十円」
そう言ってポケットからお金を取り出す。彼女は別に良いですよと初めは断ったのだが、僕が執拗に受け取るようにお願いすると、彼女はじゃあと言ってそれを受け取った。不意に、ギギギとブレーキの軋む音が聞こえ、僕たちは歩道の端に避けて自転車に道を譲る。スタスタと、他にも何人かの人たちが二人の横を通り過ぎていった。
「この街、離れるんですね」
僕がキャリーバッグに目を落とし尋ねると、彼女ははいと頷いた。
「これからは東京で生活します」
ブロロロと、排気ガスを撒き散らしながら何台も車が走り去って行く。沈黙が流れて、何か話さなきゃと思うのだが、なかなか良い言葉が浮かばない。こういう時、自分のトーク力の無さに嫌気が指す。ここで急遽一人漫談を始めて笑いが取れるくらいの実力が欲しかった。もちろん、今必要な言葉はそんな物ではないのだろうけれど。
「実は……不安だったんです。この街を離れるの」
彼女は恥ずかしそうにそう口にした。顔を上げると、彼女は泣いているような笑っているような複雑な表情を浮かべていた。
「二十二年間、ずっとこの街で暮らしてきたから……東京なんて知らない土地に行って、上手く生活出来るのかって」
それはなんとなく僕にも分かることだった。僕もこの街で生まれ、この街で育ち、そしてこの街で二十三年間という長い時間を生き抜いてきた。だからこそ、ナショナリズムとでも言うのだろうか、愛国心のような、そんな感情がこの街に対してあったのだ。田舎過ぎず、それでいて都会という訳でもなく、人と人との繋がりの温かさを感じることが出来る街。海も近く、自然も豊かなこの場所で生活を続けてきたからこそ、親が仕事の都合でこの街を離れる段になっても僕はここに一人残り大学へ通っているのだ。そのせいで、バイトで生活費を稼がなければ生きていけないような苦学生生活を余儀なくされているのだが、僕はそれでも満足していた。それは、この街が好きだったからに他ならない。
「東京の人は冷たいとかってよく言うじゃないですか。本当に冷たい人ばかりでも無いんでしょうけど、それでももし向こうで同じように私がレジに物を忘れたら……そこの店員さんは、藤田さんみたいに走って追い掛けてくれるのかなって。そんな馬鹿みたいなことを考えてて。だから、つい甘えちゃいました。藤田さんの優しさに」
照れ臭そうに俯きながら彼女は言った。そういうことだったのか。そんな風に思ってくれていたのか。思わず涙が出てしまいそうなくらい嬉しくて、それを誤魔化すために僕は笑った。
「僕も、嬉しかったんです」
言うと、彼女は顔を上げた。西村さんは真剣な瞳で僕の顔を見つめるので、今度は僕が恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。
「日頃の運動不足も祟ってしんどい思いもしましたけど、最後にお茶を届けた時に、ありがとうって笑顔で言ってくれて、凄く、嬉しかったんです。途中で追い駆けるのを、諦めなくて良かったって、そう思ったんです」
僕の答えに、西村さんは笑った。やっぱり、笑顔というものは見ていて人を嬉しい気持ちにさせてくれるんだな。それがもし彼女だけのものでないのだとしたら、僕も出来るだけ笑うようにしよう。僕みたいなブサイクが笑ったって誰も喜ばないのかもしれないけれど、少なくとも場面さえ間違えなければ、嫌な思いはさせないだろう。そう、信じたい。
「だから、また来てください。お茶でも、お菓子でも、なんでも良いので買いに来てくれたら、喜んで接客しますから」
「……ありがとうございます」
彼女はまた丁寧にお辞儀して、そして遠慮がちに続けた。
「じゃあまた、藤田さんの優しさを買いに来ても良いですか?」
思わず失笑して、僕は頷く。
「もちろん。あれだったら、東京までデリバリーサービスも考えておきますよ」
「えー、じゃあ、頻繁に注文しちゃいますよ?」
彼女が微笑むので、僕も嬉しくなって笑った。優しさのデリバリーサービスなんてものがもし本当にあったとしたら、意外と流行るんじゃないだろうか。実際に事業展開してみようだなんて度胸は僕には毛頭無いのだけれど。彼女は、左手の腕時計を気にする素振りを見せたので、僕は電車の時間が近いのだろうかと思い尋ねてみた。もうすぐですね、と彼女は少し寂しそうに答える。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ、いつでもこの街に帰ってきて下さいね」
僕が会釈をすると、彼女もそれに応じ駅に向かって歩き出す。彼女と同じくらいの大きさがあるんじゃないかと思えるキャリーバッグを引き摺りながら、少しずつ離れていくその後姿を僕はじっと見つめ、そして思い立ったようにまた声をあげる。
「東京!」
案の定、道行く人はほとんどみんなが振り返った。西村さんも歩みを止めたが、しかし彼女はこちらを見なかった。
「東京行っても、頑張って下さい!」
周囲の視線を感じ少し恥ずかしくもあったけれど、言わなければならないような気がして僕は叫んだ。ようやく彼女は振り返り、そして大きく手を振った。あまりに離れ過ぎていてその表情を伺い知ることは出来ないが、きっと笑っているのだろう。──本当は目に涙を溜めていることに気付いていたのだが、僕はそれに気付いていないフリをすることにした。彼女が泣くまいとしていることは、なんとなく察することが出来たから。だから僕は笑って、大きく手を振り返す。やがて人混みに紛れ、彼女の姿は見えなくなった。チリンチリンとベルを鳴らされて、いつの間にか歩道のど真ん中に立っていたことに気付いた僕は慌てて脇に避けた。危ないわねと不満気な表情でおばちゃんが僕を睨む。すみませんと謝って、僕は思い出したように再びコンビニへ戻っていった。そう、今僕はまだバイト中の身だ。早く戻って、仕事の続きをしなければならない。大学を卒業してしまえばもうこの仕事をすることも二度となくなるのだろう。でもこの経験は、僕が医者になったとしても、患者さんとコミュニケーションを取る上できっと役に立つ日がくるだろう。だから僕は、今日も笑顔でお客さんに応じようと思う。例えばそれが、レジに購入した商品を置き忘れる、そんなドジな女の子が訪れた場合であっても。