西村あずさ -門出-
卒論に追われ早起きを強いられるようになった影響もあり、それから何度か例のコンビニに足を運んではいたのだが、藤田さんの姿を見かけることは無かった。やっぱり八時過ぎのあの時間帯からしか働いていないのだろうか。とはいえ、年末年始も返上して作業しなければならない状況だったため、敢えてその時間に出てくるのは難しかった。あの日から数日、謎の腹痛に襲われたこともあり、私はさらなる窮地に立たされていたのだ。なんでよりによってこんな時に、と家で布団に潜り悶え苦しみながら、自室とトイレを行き来する日が続いた。続いた、と言っても一日、二日程度のことであったように思うのだが、当時の私にとっては地獄のように長い苦しみだった。年が明け無事に卒論も仕上がり、教授からは「居るんだよねー、締切ギリギリに仕上げてくる人って」なんて嫌味を言われながらも何とかOKを貰うことが出来た。発表する時はまるで就活の時の圧迫面接のように質問攻めをくらい胃がキリキリと傷んだが、なんとか耐えて晴れて自由の身になった。それからは最後の春休みを謳歌するべく、卒業旅行に行ったり友達と遊びに行ったりと春休みを満喫した。一方で、東京で一人暮らしをするため家を探しに行ったり、卒業式の着物や美容院の予約を入れたりと二、三月の忙しさは想像を遥かに凌駕していた。あれよあれよという間に時が経ち、ついには東京へ出発する日が訪れた。新天地までは、猿渡駅から終点の篠山まで電車に乗って、そこから特急に乗り換えて合計二時間半程度の道程だった。長くなるので、お茶やお菓子を買って行こう。そう思い、家から駅までの最初のチェックポイントでもあるコンビニに立ち寄った。ここに来るのも今日で最後かと思うと、急に寂しい気持ちに襲われる。今日から私は、この街の住人ではなくなるんだな。二十二年分の思い出が、私の涙腺を刺激した。まだ家を出発したばかりだというのに、早くもホームシックにかかったように胸が苦しい。だからだろうか、この街を去る前に、誰か知っている人に会って話をしたかった。駅へ向かうまでの間に友達と出会うような、そんな偶然はなかなか起こらないだろう。でもこの店には一人だけ、私が知る人が居るのだ。それは、たった一度言葉を交わしただけの関係でしか無かったのだけれど、それでも十分過ぎるくらい強烈なインパクトを持って記憶に残っている。しかしあの事件以来、彼とはこのコンビニで会うことが出来ていないのだ。やはり、居ないのだろうか。居てくれると、良いな。淡い期待を抱きながら、キャリーバッグをゴロゴロと引っ張って入り口の自動ドアの前に立つ。ガーと音を立てて扉が開き、ピンポンと来客を告げるチャイムが鳴った。恐るおそる足を踏み入れ、ドキドキしながら店内を見渡す。ちょうどサンドイッチの補充をしていた一人のメガネを掛けた店員が、私の方を振り向いた。そして、あっと何かを見つけるような反応を示したのを見て、私はドキリとする。感傷に浸っていた私は、それだけで嬉しくなった。
「いらっしゃいませ」
彼──藤田さんは、ニッコリと笑顔で私を出迎えた。やっぱり、この人の笑った顔は、温かい気持ちにしてくれるから、好きだな。そんな風に思って、私もそれに笑顔で答えた。少し気持ちが落ち着いて、私はひとまず買うものを手にするべく店内左奥の冷蔵扉からペットボトルのお茶を一本手に取った後、その手前に並ぶお菓子の棚でお菓子を物色した。キノコやタケノコの形をしたチョコレート菓子を見つけ、どちらにしようか悩んだが、結局決めきれず隣にあった百円の麦チョコを選びレジに並んだ。先ほど藤田さんが居た棚を見ると彼の姿はなく、いつの間にやら私の二人前の客の商品をせかせかと袋に詰めている所だった。
「二番目にお待ちのお客様、こちらのレジにどうぞ」
向かって右側のレジでミドルヘアの女性店員が営業スマイルを見せてそう声掛けをすると、私の目の前に居たおじいさんがそちらのレジにヨボヨボと覚束ない足取りで移動していった。藤田さんに限らず、このお店の店員さんは笑顔が素敵だな。そんなことを思いながら、自分の番を待った。ありがとうございました、と彼が言うのに続いて私はレジの前に歩み寄る。藤田さんは、またニッコリと微笑みを見せてくれた。
「いらっしゃいませ、大変お待たせいたしました」
手に持っていた商品を台の上に置くと、彼は慣れた手つきでそれを機械に読み込ませていく。
「九十八円が一点、百八円が一点でお会計、二百六円になります。袋はご利用ですか?」
「ええっと、お願いします」
私が頼むと、彼は白いレジ袋を取り出しお茶とお菓子をそれに詰めてくれた。なんとなく、藤田さんに何か声を掛けようかと考えたが、彼が今バイト中であることを思いそれは躊躇われた。でも──でも、もし私がこのレジ袋を置いたまま店を出たら。彼は、また私を追い掛けてくれるだろうか。瞬時に、そんな考えが脳裏を過る。そんなことをしたら、彼に迷惑をかけてしまうに違いない。しかし、この街を離れることに後ろ髪引かれる思いでいた私には、彼のそんな些細な優しさでさえ必要だったのだ。だがそれはとても度胸が必要な行動で、それをいざ実行に移す勇気なんてものはなかなか湧いては来なかった。小銭を探すのに手間取るフリをして、気持ちの整理が付くのを待った。ふと手が震えていることに気付いて、自分で自分が可笑しくなる。嫌だな、お酒の飲み過ぎで手が震えているとか思われたらどうしよう。あの日あれだけ恥ずかしい思いをしたのだから、今更それくらいの勘違い、どうでも良いか。そう開き直ろうと思ったが、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「お願いします」
ようやく小銭を出し終えて、彼はそれを丁寧に数え上げる。心なしか、彼の手も震えているように見えたが、それはきっと彼も私と同じ気持ちで居てくれたら良いなという勝手な期待からそう感じてしまっているに過ぎないのだろう。冷静に考えてみれば、彼が緊張する理由なんて何も無いのだ。震えているのは、もしかしたら私の体の方で、視界がブレているだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、かなりの重症だ。
「二百六円、ちょうどお預かり致します」
レシートは受け取らず、私はそのままキャリーバッグを引っ張って店を後にする。レジ袋は台の上に置いたまま。我ながら、馬鹿なことをしようとしているな。今更になって、レジ袋を取りに戻りたい衝動に駆られる。でも、今の私にはそんな勇気すら出てきやしなかった。ドキドキと心臓が飛び出しそうになり、本当に万引きでもしたかのように緊張していた。店の自動ドアが、ゆっくりと開く。まだ雪さえ降り出しそうな寒さの中、ダラダラと不可解な汗をかく私。やっぱり、やめておけば良かっただろうか。後悔してももう遅い。もし、彼が私を追い掛けてくれなかったら。そんな不安もあって、私は怖くなる。そんなに怯えるなら、初めからしなければ良かったのに。何度も不安と後悔に押し潰されそうになりながら、私は駅に向かって歩いて行く。後ろを振り向いた。コンビニのドアが開く気配はない。やっぱり、毎度毎度追い掛けてくれる程、彼も暇ではないのかもしれない。そう思うと、買った商品を置きっぱなしにしてしまったことに罪悪感を覚える。また前を向き直り、一歩ずつ店から遠ざかっていく。足取りは重く、やめておけば良かったと何度目かの後悔に苛まれたその時。背後で、私を呼び止める声が聞こえた。




