九
この作品のある種白眉ともいうべき節なのに、非常によろしくないと反省した部分があったので、一部削りました。ほんの数行削っただけですけど、印象は変わったのではないかと思います。多少は。
一七二〇年四月のある日、メアリーが熱を出して倒れた。
この報せを聞いて蒼白になったのは、ボン・スチュアートことアン・ボニーと、ウォルター・スコットであった。どちらも彼女の友人として心配したのだが、アンの場合、若干違う意味の心配も含まれている。
ちなみにアン・ボニーは、二月に無事元気な女の子を出産し、その子をラカムの友人に預けると、再びラカムらの船に乗りこんでいた。
倒れたメアリーは、船医室に運ばれた。
アンもすぐに駆けつけた。
メアリー、という言葉を言いかけてかろうじて飲み込み、
「エド、しっかりしろ!」
メアリーの返事はない。ベッドに横になったまま、玉の汗を浮かべている。意識がないらしい。
「静かに!」
ウォルターは、眼や口をのぞきこんだり、脈をとったりしていた。この時代、聴診器はまだない。
彼の専門は外科だが、解熱の基礎知識ぐらいはある。
「とにかく安静にして、服をとりかえないと……」
その瞬間、
「だめだ!」
アンは反射的に叫んでいた。
「だめ?」
ウォルターは眉をひそめた。
「服は……だめなんだ……」
アンは、苦しげに言った。
「このままじゃ診察もできない。それに、汗に濡れた服は体にもよくない」
「だったら、俺がやる!」
「何を言ってる?」
「服をとりかえりゃいいんだろ!」
「うるさい、ひっこんでろ! これは医者の仕事だ!」
この若者には珍しく、声を荒げた。
アンは、唇を噛んだ。
メアリーの秘密は守ってやりたい。
でも、治療も受けさせなければ。
アンがふたつの気持ちに板挟みで動けなくなっている間に、ウォルターは手際よくメアリーのシャツを脱がしていった。
「……?」
手が止まった。
なぜか、エドワードの胸に、サラシが巻いてある。
妙だとは思ったが、治療に集中している彼は、その理由を考えることは後回しにした。
サラシを外した。
――固まった。
ひたり、とアンのカトラスが、ウォルターの首に当てられた。
「他の連中に言ったら、俺がおまえを殺す」
「……言わないよ」
ウォルターは、作業を再開した。それからは、黙々と動き続けた。残りの服を脱がせ、体を拭き、額に濡れたタオルをのせ、薬草をすりおろし、調合し、エドワード――メアリーの喉に流しこむ。
アンはその様子を、凝然とみつめていた。
翌日、意識を取り戻したメアリーが周囲を見回すと、ウォルターは床に突っ伏して眠っており、アン・ボニーも、壁にもたれかかり、立ったまま眠っていた。
メアリーはよく覚えていないが、ウォルターが必死に自分を治そうとしてくれていたのは、なんとなく覚えている。
その手がとても温かかったことを、覚えている。
メアリーは一週間ほどで体調を回復し、再び海賊業に復帰した。
「アン」
ある日の甲板上、メアリーがアンに声をかけた。
「ボンだろ」
アンが訂正する。
二人で部屋にいる時以外は、たとえ周囲に誰もいなくても、互いを偽名で呼ぶことが、彼女たちのルールになっていた。
「あたしは、男に惚れたらしいよ」
アンは、飲んでいたラムを、思いっきり噴き出した。
「鼻から出てるよ」
「ちょっとちょっと、正気かい!? また熱でも出たんじゃないか!?」
「かもしれないねえ」
メアリーは口元に微笑を含んだまま、ぼんやりと海を眺めている。
「本当なんだね」
「うん」
「へええー……」
アンは、メアリーの顔をまじまじと見つめた。
「まさか、あんたがねえ……」
「自分でも驚いてるよ」
「で、相手は誰なんだい?」
「ウォルター」
「え?」
アンは、聞き間違えたと思った。
「ごめん、もう一回」
「ウォルター」
アンは、露骨に眉をひそめた。
「ウォルターって……え? あの?」
「うん、ウォルター。ウォルター・スコット」
「……冗談じゃなくて?」
「うん」
アンは、天を仰いだ。
その姿勢のまま、メアリーの言葉を反芻し、理解しようとした。
しかし、脳が拒絶するかのように、意味が入っていかない。
だいぶ経ってから、ようやく絞りだすように、
「あんた、趣味が悪いねえ」
しみじみと言った。
メアリーは苦笑した。
「あんたにだけは言われたくないよ」
アンは、納得がいかなかった。
なぜだ。
なぜよりにもよって、あんな甲斐性無しの青瓢箪なのだ。
メアリーほどの娘の相手であれば、王侯貴族か大海賊ぐらいでないと、釣り合いがとれないと思っていたのだ。
「どこがいいんだ、あんなやつ」
吐き捨てるように言った。
「なんだろう……優しいからかな?」
言いながら、自分でもよくわからなかった。
「優しい? ありゃ八方美人っていうんだ」
憤然と言っても、幸せそうにへらへらと笑っているメアリーを見ていると、一人でイラついている自分が馬鹿らしくなってくる。
「……いつからなんだいっ」
「うーん、いつからだろう……」
それもよくわからない。もしかしたら、初めて出会ったときから惹かれていたのかもしれないとも思う。
アンは、どうしても納得がいかない様子であった。
「なんていうか、ピストルでガレオン船を沈められた気分だよ」
メアリー・リードは、一六九二年、イギリスで生まれた。
彼女の母親は船乗りと結婚したが、彼は身重の妻を残し、消息を絶った。死んだのかもしれない。
生まれた子は男の子だった。
ほどなく、彼女は二人目の子を宿してしまった。相手は彼女しか知らない。彼女は不義理を隠すため、別の地へ去って行った。
間もなく、彼女の息子は死んだ。
そして、いれかわるようにして生まれたのが、メアリー・リードである。もちろん、その存在は秘匿された。
メアリーの母親は、夫の母親から養育費をせびろうと思い、メアリーに亡き息子の影武者をやらせた。つまり、メアリーを男として育てたのである。
しかし、やがてパトロンが亡くなり、金が入ってこなくなると、メアリーは十三歳でさる婦人の家へ奉公に出された。
が、すぐにここを抜け出すと、いくつかの仕事を転々とした後、軍艦に乗りこみ、ここで船のイロハを覚えた。後に海賊になったとき、すぐに順応できたのは、このとき習得した知識と経験によるところが大きい。
その後フランドルへ行き、はじめ歩兵連隊、次いで騎兵連隊に加わって戦争に従軍した。無論、ここでも男装をしている。そして、ここで彼女は運命の出会いをした。一人の兵士に恋をしたのである。
初恋だった。
思いこんだら一途な女だった。相手の男が戦地へ赴くとき、命令がなくても彼女は勝手についていき、男の身を護った。
命懸けの恋であった。
自らの正体を明かすと、彼女の想いは通じ、やがて彼女はその男と結婚した。二人で軍を退き、居酒屋を開いた。幸せの絶頂であった。
が、幸福な日々は、流星のように儚く去っていった。結婚して一年と経たぬうちに、彼女の夫は病でこの世を去ったのである。
四年間、何もやる気が起きなかった。
恋と血でしか酔えぬ女であった。
その恋を、喪った。
その後、貯えも底をつき、オランダの歩兵連隊に入隊したが、
〝自分には、血だけか〟
と思うと、たまらなくなった。
何か新しい生き方が見つかるのではないかと思って新天地へ向かったが、しかしそこにあったのは、やはり血と、そして、恋であった。
夜、甲板で一人星空を見上げる、メアリーの姿があった。
口元には、知らず微笑が浮いてしまう。
〝もう二度と、恋なんてできないと思ってたんだけどな〟
メアリーは、自分で自分がおかしかった。
そこへ、ウォルターがやって来た。
「やあ、メア……エドワード」
「メアリーでいいよ」
言ってから、しまった、と思った。
自分が彼に対して特別な感情を抱いていることを、気付かれてしまうのではと思ったのだ。
「じゃあ、メアリー、その……」
「ん?」
「えーと……」
と、言葉を探すようにあらぬ方を見る。
「メ、メアリーは、一度赦免を受けたんだよな」
「ああ。もともと好きで海賊になったわけじゃないからね」
「だったら……!」
「……?」
ウォルターは、二、三度大きく深呼吸すると、覚悟を決めたように言った。
「だったら、次に赦免の布告が出たら、一緒に船を降りないか?」
「一緒に?」
ウォルターは頷くと、一拍置いて、
「僕と、結婚してほしい」
はっきりと言った。
ムードもへったくれもない。
重い沈黙が流れた。
「……いきなりだね」
メアリーが言った。
「ごめん」
ウォルターにも、どうしてこんな気持ちになってしまったのか、よくわからない。
まぶたの裏に、メアリーの白い裸身が、鮮烈に焼きついている。
単なる性欲を、愛情と勘違いしたのかとも思う。
しかし、エドワードだった頃の彼女と交わした会話の相手が、彼女だったのかと思うと、全てが素敵な恋の語らいだったようにも思えてくるのだ。
都合の良い記憶の改竄かもしれない。
しかし、所詮恋など、思いこみであろう。
大事なのは経緯ではなく、今の気持ちだ。
メアリーは、沈黙したまま、遠くを見ていた。
ウォルターもまた、言葉が見つからない。
メアリーの横顔は、どこか憂いを含んでいるようにも見えた。
これはふられたか、とウォルターが諦めかけたそのとき、
「一つだけ、約束して」
メアリーが、ぽつりと言った。
「あたしよりも先に、死なないで」
「――」
「死ぬ時は、あたしも一緒に連れていって」
ウォルターは、メアリーの体を抱き寄せた。
「約束する。決して一人にはしないよ」
「約束だよ」
二人の唇が、重なった。
メアリーは、恋をしていた。