六
困ったことになった。
さきの一件以来、アンのエドワード――メアリーを見る目つきがおかしい。
彼女の危機を救ったことが、はからずも彼女の心を奪う結果になってしまったようだ。
そのうち、
「おまえら、できてんのか」
と仲間達がからかうほどに、あからさまに近付いてくるようになった。
かてて加えて、ラカムのメアリーを見る目つきまでおかしくなってきた。こちらには、明らかに嫉妬の色が含まれていた。
ははあ、とメアリーは事情を察した。
全く、頭を抱えたいような気分であった。
そうして、ついに恐れていたことが起こった。
ある夜、アンがメアリーのベッドに忍びこんできたのである。
「おい、俺はそんな趣味はないぞ」
メアリーはとぼけようとしたが、通用しなかった。
「いいんだよ、それで。ほら」
アンはメアリーの手を取ると、自分の胸に導いた。
嬉しくもない隆起があった。
「わかるだろ? あたしは女なんだよ」
アン・ボニーは、大柄な女だった。
太り肉というよりも、骨が太いという印象を与える体つきをしている。
髪は黒髪。肌は灼けた赤銅色。
顔の部品も全てが大ぶりで、とくに口の大きさが際立っていた。美形というわけではないが、下品と紙一重の野性的な魅力があった。
声も野太く、男装をしていなくても首から上だけを見れば充分男に見えた。
その女が、今、メアリーに迫っている。
「待っ……!」
言おうとする口を、アンの唇がぬめりと塞いだ。
首に腕を回された。
凄い力だ。
歯の間を割って、アンの舌がねじりこむように入ってきた。
メアリーの口内を蹂躙しながらも、アンの眼はかっと見開かれたままだった。濡れて、爛々《らんらん》と輝いている。火がついていた。
メアリーは、肉食獣に襲われる草食獣の気持ちを知った気がした。
歯茎の裏までたっぷりとねぶられた後、メアリーはようやくアンを引き離すことに成功した。
「ちょ、ちょっと待った!」
「なんだい、待てないよ。あたしが嫌いかい?」
「そうじゃなくて――」
言ってから、しまった、と思った。
「だったら、いいじゃないか」
アンの顔が近付いてくる。
メアリーはアンの肩を必死で押さえると、覚えず言っていた。
「あたしも、女なんだ!」
アンは、きょとんと目を丸くしたあと、
「そんなに、あたしのことが嫌いかい……?」
悲しそうに言った。
どうやら、断るための嘘と思ったらしい。
「そうじゃなくて……」
「だったら何? 誰かいい娘でもいんのかい?」
「だから……」
「かまわないんだよ、あたしは。体だけでも。ね、試してみてよ。あたし、すっごいんだよ。絶対気に入るからさ」
そう言うと、アンはメアリーの右手の人差指を口に含んだ。
「う……っ!」
人差指から送りこまれる舌技の感触に、メアリーは思わず声をもらしそうになった。
メアリーとは、場数に天地の開きがあるのだろう。確かに、すごいものを持っていそうであった。
押し寄せる快感の波に抗いながら、メアリーはどうにか指を引き抜いた。
「待てって」
「なに、よくなかった?」
「そうじゃなくて……」
「もしかして、あんた、ホモ?」
「だから、あたしは女だって言ってるだろ」
「まさか。こんないい男が女のはずないさ」
アンは一笑に付した。
処置なしである。
やむなく、メアリーは証拠を見せることにした。
シャツの前を開き、寝るときも外さないサラシを取ると、驚くほど豊かで真っ白な双丘がこぼれた。
同時に、アンの顎も落ちた。
固まった。
どれほどそうしていただろうか。
「……そうかい……」
アンは、長い、本当に長い溜息をついた。憑物の落ちた顔をしていた。
「まあ、ついてないんじゃ、仕方がないよねえ」
しみじみと言った。
だますつもりはなかった、とは言えないメアリーは、
「悪かったね」
とだけ言った。
「ま、お互いさまだからね」
「何故、男装してまで船に? やっぱり、ラカムといるため?」
「気がついてたのかい?」
「なんとなくね」
「まあ、そうなんだけどね。でも、ガキの頃のクセもあったのかな。別に陸で待ってても良かったんだし」
「ガキの頃のクセ?」
「まあ、いろいろあってね」
アン・ボニーは、一六九四年、アイルランドのコーク州で生まれた。
弁護士の父親が女中であった母親に産ませた、不義の子である。この浮気が原因となって、父親とその正妻は別居することになった。
まずいことに、彼の実母が正妻の味方についた。そして、遺産を全て正妻と、彼女が産んだ二人の子供に譲って、他界してしまったのである。
生活費の大部分を実母に頼っていたアンの父親には、これは大打撃であったが、正妻は天使の如き優しさを発揮し、別居中の夫のために毎年いくばくかの金を送った。
そんな生活が五年ほど続くと、父親はアンをひきとって一緒に暮らしたいと思うようになった。しかし、そんなことを彼の正妻が知ったら、ただで済むはずがない。
そこで、アンの父親は彼女に男の服を着せ、親戚の子供と偽って育てることにした。
しかし、そんな嘘はすぐにばれる。天使の優しさにも限度はあり、送金は打ち切られた。
結局、父親はアンと母親を連れ、カロライナへ渡った。
幼い頃男として育てられたせいかはわからないが、長じたアンは、男まさりの気性の烈しい女になっていた。ついでに、男の出入りも激しかった。父親はどうにかこのじゃじゃ馬娘を落ち着かせるため、良い夫をあてがってやろうともしたが、奮闘努力もむなしく、アンはジェームズ・ボニーなどというどこの馬の骨ともわからぬ男と結婚してしまい、勘当同然で家を追ん出た。
二人は、プロヴィデンス島に渡った。
ジェームズは、以前は海賊だったが赦免を受け、今はまっとうな船乗りをやっていた。
しかしアンは、まっとうな男の手におえる女ではなかった。結婚しても男癖の悪さは治らず、次々と浮気をくり返した。
そうして、ジョン・ラカムと知り合ったのである。
二人はジェームズにアンとの離婚を迫ったが、この話を総督が耳にし、アンとラカムの不品行の数々を知ると、アンの離婚を禁じ、もし離婚などしたら二人とも牢にぶちこんで、鞭打ちの刑に処してやると通告した。
これに対するアンとラカムの答えは、ジョン・ヘイマンのスループ船奪取であった。
つまりは、駆け落ちである。
「あんたは、どうして男装を?」
今度はアンがきいた。
「似たようなもんさ。あたしも、ガキの頃から男として育てられてね。もっとも、あたしの場合、人生のほとんどを男の格好して過ごしてきたんだけどね」
「どうりで、男っぷりがいいわけだ」
アンはくすくすと笑った。
「それにしても惜しいなあ。本当に、あんたが男だったら良かったのに」
「ついてなくて悪かったね」
「いや、この際、ついてなくてもいいや。ねえエディー、いや、メアリー、しようよ」
アンはメアリーにしなだれかかってきた。
「ちょ、ちょっとよしてよ。それこそ、そんな趣味はないんだからさ」
「ふふ、冗談だよ」
アンはメアリーに軽くキスをすると、
「おやすみ」
とベッドに潜り込んだ。
翌日、アンとメアリーは、ラカムの船室に呼ばれた。用件は、訊くまでもなかった。アンがメアリーの部屋から出てくるところを、誰かが見ていたのだろう。
部屋の中には、剣呑な香りが充満していた。火薬庫の中に、火打石を抱いて立っている気分である。ちょっとの刺激でも爆発しそうであった。
「あー、てめえら、その、あれだ……」
気持ちが昂ぶり過ぎているためだろう、ラカムは、なかなか言葉が出てこないようであった。
眼が、半分イッている。
メアリーは、先手を打った。
「はじめに言っとくけど、あたしは女だからね」
二拍の間を置いて、
「……あ?」
とラカムは言った。
「これが証拠よ」
とメアリーはシャツの前を開け、胸の谷間がわかるところまでサラシをめくってみせた。
あまりの展開に、ラカムは言葉を失っていたが、やっとのことで、
「……そうか」
と、間の抜けた声をしぼり出した。
「だからね、アンとは、あんたが考えてるようなことは何もなかったの。わかった?」
と、ラカムには、新たな疑念が浮上したようであった。
「おい、おめえ、本当に何もなかったんだろうな?」
とアンに向かって言った。
「あんた、あたしがどれだけ男好きかって知ってるでしょ?」
アンは、自慢にもならないことを堂々と言った。
「それもそうか」
ラカムは、あっさりと納得した。
しかし、メアリーが退室した後も、ラカムは、疑念は晴れたが、釈然とはしないようであった。
俺は、女に愛人を寝取られそうになったのか?
そう言っている顔である。