08 かいじん 著 珈琲 『海とコンビナートの見える喫茶店』
本屋を出て商店街のアーケードを抜けると、どんよりと曇った12月中旬の灰色の空は見上げるだけで、何だか寒々しかった。小学4年生の僕が東京から数百キロ離れたこの海沿いの小さな町に転校して来て2ヶ月が過ぎて、学校はもうすぐ冬休みに入る。
日曜日の午後、僕は一人で町をあてもなくぶらぶらしていた。町の小さな商店街から、バスターミナルの横を抜けると、町から半島の南端にある港まで走っている軽便鉄道の踏切にたどり着く。軌間762センチの狭い線路を渡ってさらに海の方へ歩いていくと銀行の支店の所にあるT字路の交差点で町並みは終わり、海岸通りの向こう側にはかつて日本最大の塩田を持ち(塩田王)と呼ばれた男が所有していた塩田跡が曇り空の下で広々と広がっている。塩田跡のずっと奥の方、海岸の防波堤が続いている手前辺りには、高架橋を
建設する為の橋脚が途切れ途切れに半島の南の山あいの方に向かって出来始めていた。数年後にはその高架橋の上を鉄道が走り、その線路は半島の南に向かって伸びて南端近くのタコ漁の為の蛸壺がたくさん転がっている岸壁の真上辺りに架かる大きな橋から、瀬戸内海上をいくつかの島を経て対岸の四国にまで通り抜けられる様になる事になっている。塩田跡には、駅を中心に新しく町並みが出来る様になるらしい。
僕はしばらく海岸通りの歩道から荒涼とした塩田跡の方を眺めながら、将来、よく晴れ渡った日に目の前に出来る新しい駅から電車に乗り、開通した橋を渡って陽光きらめく瀬戸内海の上を走って行く光景を想像してみた。それから、また海岸通りの信号を渡って町の方に向かって歩き始めた。
「川本君!」交差点を渡って、銀行の支店の横を通り過ぎた時、銀行の駐車場の方から僕の名前を呼ぶ若い女の人の声がした。
駐車場の方に振り向くと停めてあった軽自動車の所に小柄でメガネをかけた図書館の渡部先生が立っていた。
「川本君、今、一人なん?」渡部先生がそう言ったので、僕はそうだと答えた。
「こんなところで、一人で何をしよるん?」
「特に……やる事がなかったので、ぶらぶらしてました。」
「一人で?」
「ええ……」
「ふうん……」
渡部先生は僕の顔を見ながら何か言おうと考えてるみたいだった。
その間、僕は何と無く少しバツの悪い思いをしながら黙っていた。
不意に渡部先生が細い手首に巻いた細い腕時計を見た。
「あんなあ、川本君、これから先生と一緒にお茶飲みに行かん?」渡部先生が言った。
僕は少し驚いて先生の顔を見た。
「お茶……ですか。」
「今日は先生が特別に奢ってあげるから。・・・その代りこの事は学校であんまし言うたらいけんよ。」
そう言う訳で、僕は渡部先生の軽自動車に乗って一緒にお茶を飲みに行く事になった。
渡部先生は銀行の駐車場を出ると、海岸通りを方に出て車を南に走らせた。
・・・
10月にこの町の小学校に転校して来た僕と、今年の春に教諭になったばかりで、僕の今通っている小学校の図書館に赴任して来たらしい渡部先生は、今までそれ程、話はした事が無かったけど、この2ヶ月ばかり学校でよく、と言うよりほぼ毎日の様に顔を合わせていた。この町に来て2ヶ月たったけど、未だに標準語しか話せず、そもそも東京の学校にいた頃から無口だった僕は、新しいクラスの中にうまく馴染めないでいた。だから、昼の休憩や放課後の時間、他のクラスのみんなは教室や渡り廊下、校庭やグラウンドとかで何人かで遊んでいたりしてたけど、僕はそう言う時大体、図書館で一人で過ごしていた。今の学校に転校して来て以来、僕にとって図書館と言うのは、一人でいても周りから浮いた感じがしないし、黙っていても、それが普通の場所なので一番、落ち着いて過ごしていられる場所だった。
図書館に通い始めた、はじめの頃は(航空機図鑑)とか(魚類図鑑)みたいなものを、何と無く眺めていたりしていたけど、ある時、新聞社が出版している、各年ごとの年鑑みたいなものを、手に取ってみて、それから、その中に載せられた報道写真や、世界や国内で起こった事件や出来事についての記述や解説を熱心に眺めたり読んだりする様になった。
戦争、虐殺、政治疑惑、公害問題、政治闘争、凶悪事件……そこには、学校では教えられていない、或いはまだ触れられていない10歳の僕には、少し衝撃的な社会の現実の姿があったりした。僕はそう言うものを目にしている内に、世の中の正義だとか、人生の価値観だとか言うものは、周りが言っている事や、教えられる事だけで判断したり、理解する様なものでは無い様な気がした。
・・・
渡部先生の運転する車は、海岸通りを南に少し走って、町の中心部を出た所にある、交差点で右折して山間の谷間を通って半島を横断する道に入って行った。少し長く急な坂道を登り切って、その後、半島の反対側に向かって下って行くと半島を海沿いにぐるりと廻って来た海岸通りに再びぶつかる。その向こうは海だ。
海岸通りの交差点で、渡部先生は右折して、海岸通りを北に向かって車を走らせた。向かって行く目の前は山が海の方に向かって突き出した小さい岬になっていて道はまた上り坂になった。その坂を登り切ると、坂を下った道路の海側の埋立地にコンビナートの石油タンクや赤白の高い煙突がずっと先の方まで建ち並んでいるのが見えた。
渡部先生の運転する車は、坂を下り始めてすぐの海側にある、高台の喫茶店に入って行った。車を店の前の駐車場に停めて、ドアを開けて外に出ると、海の方から冷たい風が吹いていて寒かった。
僕と渡部先生は店の中に入ると、海と石油コンビナートがよく見える窓際のテーブルに向かい合って座った。渡部先生が上着を脱いだ時にスリムな体型にぴったりとしたセーターから胸の形がはっきりして僕は少しドキッとした。
ウエイトレスが注文を取りに来て、二人ともホットコーヒーを注文した。
「何か食べる?」と先生に聞かれた時、テーブルに立て掛けてあったメニューにハムサンドやらミックスサンドとか書かれているのが目に入ったけど結局、遠慮した。
少したって、コーヒーが運ばれてきた。
渡部先生はコーヒーに角砂糖を一つ入れて、その後小さい容器に入ったミルクを入れて、カップをスプーンでかき回した。
僕はいつも家でコーヒーを飲む時は角砂糖を2つ、時には3つ位入れてミルクもあれば入れられるだけ入れたりしていたけど、今日はブラックで飲もうとか少し考えた後、結局角砂糖を一つだけ入れた。
・・・
「川本君、学校でいつも一人でおるなあ」コーヒーカップを手に取り、それを飲みながら渡部先生が言った。
僕は何と言えばいいのか、よくわからず上手く答えられなかった。「学校で一緒に遊んだり、お話をしたりする様な友達はおらんのん?」
「ええ、まあ……」僕は決まりの悪い感じで曖昧に返事をした。
渡部先生は小さいため息をついた。
「あんなあ、川本君、いつまでもそんなんじゃったら、いけんのよ」そして、「もっと、いろんな子と、いろんな話をしてみたりとかせんと・・・ずっと一人じゃったら、いつまでたってもほかの人との付き合い方とかがわかる様になれんのんよ」と言ってまたコーヒーを一口飲んだ。
「自分の目で、いろんなものを見てみたりしないと、世の中の事が本当にはあまりよくわからないみたいにですか?」僕がそう答えると、渡部先生はメガネの奥の目を少し見開らかせ、それから
手に持ったコーヒーカップを置いた。
「まあ、そういう事じゃねえ……」渡部先生が言った。
窓の外は相変わらず厚い雲が空を覆っていて、雨か雪が降り出してもおかしくないくらいだった。
「川本君は、将来、なりたいものとかあるん?」渡部先生が言った。
僕は今までそんな事を考えた事はほとんど無かったけど、その事についてしばらく考えている内に、なんとなく渡部先生の関心を引きたいと言う気持ちになった。
「映画を作ってみたい」
僕は言った。
渡部先生の方を見ると、その答えは先生の興味を少し引いたみたいだった。
「どんな映画を作りたいん?」渡部先生が言った。
そもそもが思いつきで言った事だったので、そんなイメージとかがある筈も無かったけど、僕は頭を最大限に回転させながら必死に考えた。
「銀行強盗の話……」行き当たりばったりで僕は答えた。
「その話、何か興味があるなあ……」渡部先生が少し身を乗り出して言った。
もはや、こうなると僕は問われるまま、思いつくままに、口から出まかせを続けて行くしか無かった。
・・・
ある若い男が、銀行を襲って現金を強奪する事を決断する。周到な犯行計画を立て、入念な下調べをした。犯行の当日、男は目標の銀行に向かって歩いて行く。銀行の目前で男は、高校の時、密かに想いを抱いていた女性と再会してしまい、結局その為に犯行を断念する事になってしまう。その日以後、男がその女性と会う事は無かったが、それからしばらくたったある日、男はその女性が自分の恋敵を殺害した容疑で現在も逃走中である事を知る。彼があの日、彼女に会ったのはその犯行が行われた直後の事だった・・・
・・・
「何て言うか、人の運命は、その先がどうなっているのか、よくわからないと言う話です」どうにか最後まで話を続ける事が出来た僕はそう言って話を締めくくった。
僕の話が終わった後、渡部先生はコーヒーカップを持ったまま、しばらく僕の顔を眺めていたけど、やがて気がついた様にコーヒーカップをテーブルに置いた。
窓の外はどんより曇っていて、風の為にいつもより少し波の高い海面は暗い色をしていた。埋立地に石油タンクがいくつも並び、赤白の煙突が聳え立ったその下に何本ものパイプが縦横に走っている光景も今日は何だか陰鬱に映った。窓の外は寒々しい景色だったけど、店の中は暖色の照明が灯って暖房が効いていたし、何より渡部先生と向かい合って話をしている事で、何だか心が暖まった。
・・・
山の桜はもうほとんど散ったけど、暖かい春の陽射しがとても心地よかった。先週、四国に通じる橋が開通して、町ではまだお祭り気分の空気が続いている。
僕はこの春で中学2年になった。
今日は土曜日で、午前中の授業が終わった後、自宅に帰らずにそのまま友達の自転車の後ろに乗って、半島の反対側に抜ける道の坂の途中にある、友達の家に寄った。帰りはバスで町まで戻る事にして、僕は春の陽射しを受けながら、バス停でバスが来るのを待っていた。しばらくすると、坂の上の方の住宅やマンションが何軒か建っている辺りから赤ん坊を抱いた若い女の人がこちらの方に歩いて来るのが見えた。その女性の姿がだんだんはっきり見える様になって来て、僕は少し驚いた。歩いて来たのは何年ぶりかで見る渡部先生だった。今は、たぶん、違う苗字になっているのだろう……。
「久し振りじゃねえ」小学4年の時、僕が生まれてはじめて恋心みたいなものを感じた女の人が言った。
銀行強盗の話はその後、書く事が無かった。
(おわり)