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自作小説倶楽部 第6冊/2013年上半期(第31-36集)  作者: 自作小説倶楽部
第36集(2013年6月)/「雨」&「スイーツ」
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08 まゆ 著  雨 『ヒルノアメ』  

 五月と共にやってきた転校生に、鈴木美沙は羨望と少しの嫉妬を覚えた。「海老須葉子」と紹介された少女は、涼やかな声で自己紹介を終えたあと、湿気を帯びた長い黒髪を垂らしてお辞儀をした。セーラー服からのぞく白い肌には、上薬のように光の幕が張りついているように見えた。

 教師は、葉子に美沙の隣に座るように指示した。葉子の黒い瞳はそれ自体が生きているかのような深い光沢を放ち、美沙の瞳孔を覗き込んだ。

「よろしくね」

 軽く会釈をする葉子に、その姿に見とれていて返事が遅れてしまったことに気が付き、慌てて「こちらこそ、よろしくね。わたし、鈴木美沙って言うのよ」と美沙は笑顔を作った。

「エビスって、恵比寿様のヱビス?」

「字は違うのよ。海にいる方」

「ああ……」

 美沙は、自分の会話の切り出し方の不器用さを呪った。

 もう、転校生は椅子に腰を降ろしまっすぐ黒板を見据えていた。


 美沙と葉子は、梅雨前線がかかる頃には中がよい友達になっていた。美沙から見れば、美貌の転校生と仲良くなれることがうれしかった。葉子は、落ち着いた態度と、お花やお茶に精通した古風な趣味から、良いところのお嬢様ではないかという噂が立っていた。しかし、美沙から言わせれば、葉子には気取らない気さくさがあり、つき合いやすい友人だった。

 低く垂れ込めた雨雲から霧のように降り注ぐ雨は、授業が終わるころには篠つく雨に変わっていた。アスファルトの表面に水の膜が張られ、雨のしぶきが白く立ち込める。部活は中止となり早く下校するようにとの校内放送が入った。

「あの美沙さん」

 葉子が美沙に声をかけた。「突然ですが、今日は華道部のお稽古がないから、わたしの家によりませんか」

 美沙は葉子の家にまだ行ったことがなかった。クラスの誰もどこにあるのかは知らない。お金持ちだろうと噂されているので、それなりの大きなお屋敷なのかもしれない。それなら、誰彼となく気が付きそうなものではあるのだが、どんな家に住んでいるのか知っている者はいないのだ。もしかしたら、平凡な一戸建てかもしれないと美沙は思った。

「えっ、おじゃましていいの?」

「もちろんです。美沙さんは、この町で始めてできたお友達ですもの」

 葉子の屈託がない笑顔に、美沙は反射的にうなずいた。美貌の転校生と秘密を共有できるようなうれしさが湧いてきた。秘密と言っても、住所録が出来ればわかりそうな程度のものだけど、個人情報保護が重視される学校ではそういったものはつくられていないのだ。

 美沙と葉子は学校を出ると傘をさして並んで歩いた。

 歩道から跳ね上がるしぶきなのか、細かい雨粒が混じっているのか、傘をさしているのにセーラー服に湿り気が染み透ってくる。

 葉子の口が動いているのがわかるが、傘を叩く雨の音が大きくて聞き取れなかった。

 葉子は美沙の傘の下に入って耳元で囁いた。

「後ろを振り向かず、わたしについてきてください。途中で走りますけど、そのまま走ってついてきてください」

 そう言うと、葉子は一歩先に出て早足になり路地を曲がるなり走り出した。美沙は、普段、落ち着いて走ったりはしない葉子の行動に戸惑いながらも言われた通りついていく。

 いつくかの路地を曲がるとやっと葉子は立ち止まった。

 葉子も美沙も肩で息をしている。

「美沙さん、ごめんなさい。いつも、後をつけてくる人がいるのよ」

「ああ、尾行されていたのね」

 美貌の転校生で謎も多いとなれば、後をつけようと思うヤツもいるだろう。男子とは限らない。女子でも、自分でも葉子の家を知りたいと思うのだから。

「だいじょうぶ。危険はありませんから」

 葉子も慣れた様子で元の落ち着きを取り戻した声で言った。

 葉子の肌は、しっとりと透き通るように見える。梅雨の湿気がそうさせるのかもしれないと美沙は思った。

「もうすぐ、そこです」

 意外と近くに住んでいたのだと美沙は思った。

「ここです」

 指差された家は、想像とはかけ離れたものだった。

 古ぼけたアパート。

 葉子は、塗料がはがれて錆びついている階段の手すりに手を置き「どうぞ」と手招きをした。

 朽ちかけた非常階段のような鉄製の階段は、運が悪いと抜けてしまいそうでそろそろと足を置きながら登って行かなければならない。葉子は、むき出しの電気や水道メーターの横のドアに鍵を差し込むと丸いドアノブを回した。

「もしかして、一人暮らし?」

「はい」

 コンクリートむき出しの上がり場に靴をそろえると、生ごみのにおいが鼻を突いた。板の間のキッチンの奥に四畳半の畳に卓袱台が置いてある。

「驚きましたか?」

「ええっ! まあ、なんか、葉子さんはどちらかと言うとマンションって感じだから……いえ、もっと広い庭のある日本風の家とか想像していた……それに高校生で一人ぐらしって?」

 葉子は口に手を当てて吹き出しそうなしぐさで言った。

「美沙さんは、ほんとうに正直者ですわね。高校生の一人暮らしなんて、こんなものですよ」

「ああ、ごめんなさい。でも、いいなあ、一人暮らしか! あこがれる」

「お茶で良い? と言ってもコーヒーとか無いの」

「ああ、良いよ。なんでも」

 葉子はヤカンをガス台にかけてほほ笑んだ。

「葉子さん、すごいな。一人で暮らしているなんて。寂しくないの?」

「寂しいと思ったことは無かったわ。それは悲しいことなのだけど」

「悲しいの?」

「そう、寂しいと思うことは好きな人がいること……会いたい人がいるのに会えないから寂しくなるの。誰にも会いたくなければ寂しくならない。だから、寂しいと思わないことは悲しいことでしょ」

「なんとなく、分かるよ」

 美沙が相槌をうつ。

 葉子はポットにお湯を移し、急須と茶碗の用意をしている。

「でも、わたしは寂しいと感じた。これはうれしいこと」

「へえ、好きな人でもできたんだ」

 葉子は湯冷ましに湯を注ぐ。その姿は様になっていて、やはり上品だと美沙は思った。

「そう」

「誰?」

 葉子は、茶碗にお茶を注ぎ、美沙に進めた。

「粗茶ですが、召し上がれ」

「あ、こう、三回回すのでしたっけ?」

「ああ、別に茶道でもないから、そんな作法は無くってよ」

 葉子は、はにかんだように笑った。

 アパートのトタン屋根を叩く雨の音が一段と強くなった。

 葉子は立ち上がると、一つしかない窓を開けた。雨のしぶきが飛んでくるのではないかと思うくらいの湿気が部屋に入ってくる。

「部屋の中、しけちゃうよ」

「いいの。湿気がある方が元気が出るから」

 そう言って振り返った葉子の顔はいつもに増して白かった。この世の人間とは思えないほどに透明感がある。

「葉子さん……あなた……どこから来たの?」

「誰も知らない町からよ。そして、誰も知らない町に行くの」

 葉子は、天井を指差した。

 天井が動いている。と、美沙は叫ぼうとしたが声が出なかった。しりもちをついたような格好で、口を半開きにして天井を見つめた。漆喰の板張りかと思っていた天井が、風を受けた布のようにうごめいていた。それはゴム張りのようにも見え、やがて波打つコールタールのように変化した。

「あ、あああ……」

 美沙は、阿呆のように目を見開き天井を見つめるしかなかった。

「美沙さん、怖がらなくていいの。何の危害もないわ」

 やがて、コールタールの雲と化した天井から、黒い雫が部屋一面に降り注いでくる。黒い玉は畳の上に吐き出されたガムのようにへばりついたと思うと腕を伸ばし、その先端を畳に吸い付けたかと思うと腕を縮めて移動する。

 これはヒルだと気が付いた美沙は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。

 声を出そうと思っても、「あ」とも言えないことに気が付いた。

「大丈夫。ヒルは何もしないわ。それどころかヒルに悪い血を吸わせて病気を治す治療法があるくらいなの」

 天井を埋め尽くすヒルが部屋一面に降り注いでくる。美沙は、腰が立たず声も出ない。

「美沙さん、さっきのお茶、美味しかった?」

 顔にも手にも冷たい感触が湧いてくる。ヒルが皮膚の上を這っているのだ。

「わたしが、誰を好きで、どうして寂しいか教えてあげる」

 葉子は、美沙の頬に手で触れて語り始めた。美沙は、葉子の瞳の中に黒いヒルがうごめいているのを見て取った。完全な金縛りだった。失神することすらできないのだ。

「わたしは、たった一人で二千年旅をしてきたの。ふふふ……信じられるかしら。ほら、こうして……」

 葉子はヒルを一匹つまみ上げると細い指先で丸めて、サクランボでも食べるように口に運んだ。

「乙女の生き血をタップリ吸ったヒルを食べると若さを保っていられるわ。これを続けながら、旅するのがわたしの生き方……そして、人を好きになるとその人を求めるの……」

 葉子は、またヒルを美沙の体からはがし口に含む。

「わたしは、あなたが好きよ。美沙さん。いっしょに旅をしてくれないかな……。永遠の生命の中で、わたしといっしょに生きてよ」

 葉子は、自分の体に吸い付いたヒルをつまみ、美沙の唇に押し付けた。

 美沙は必死で唇を噛んで、首を横に激しく振った。

 いやだっ! いくらため息がでるくらい美しい転校生といっしょでも、ヒルを食べながら旅をするなんてできない。美沙は首を振り続けた。

 葉子の目から涙があふれた。

「やっぱり、あなたも嫌なのね。いままで何人も人を好きになったけど、一人もわたしについてくれる人はいなかった。あなたこそはと思ったのだけど……」

 美沙は、畳の上に倒れこんだ。いや、倒れこむことができた。無数のヒルが体中を這いまわっているのを感じた。

「今日、ここで起こったことはすべて忘れるわ。わたしはあなたの血を吸ったヒルをたくさん食べてまた別の町に行くことにしましょう。ほんとうにあなたの血は美味しかったわ」 葉子が唱え始めた経とも呪文ともとれない声を聴きながら、美沙の意識は遠のいて行った。

 美沙が目覚めたときは、自宅のベッドの上だった。母の話によれば、友人の家で貧血で倒れてタクシーで運ばれてきたということだった。

 美沙には、その友人が誰だか思い出せなかった。次の日、学校へ行っても思い出せずにいた。一人の女生徒が転校していったと聞いたけど、縁遠い存在だったのか特に気にもとめなかった。

 しかし、一月もすると、あの日の記憶が蘇ってくるのだった。美沙は、自分と葉子の間にあった最後の日の事件を思い出した。美沙はインターネットで検索をかけ、ふとしたことから古事記の記述に興味をひかれた。

「ヒルコは、国産みの際にイザナギとイザナミの間に生まれた最初の神であった。しかし、不具であったため葦の船に乗せられて流される。蛭子神として各地でまつられることとなる。ちなみに『蛭子』と書いてエビスと読み、恵比寿との関連も深い」

 彼女は海老須と名のっていたが、字が違う海にいる方と言ったのはそういうことではなかったのか。

 彼女はエビスの血を引く者なのかもしれない。二千年を超える日々をさすらいながら生きているのだろうか。

 そして、美沙は喉の渇きを覚える。ヒルを食べたい。そんな衝動を抑えることができない。なぜならば、あの日、美沙は一口飲んでしまったのだ。偶然、自分の口の中に入ってきたヒルを……。

  《おわり》


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