05 紫草 著 雨 『あしたも、風は吹いていたのに…』
注意・この物語はフィクションです。登場する人物・事柄は全て架空のものです。
陰暦陸月。
水の月。
大好きな水のその月に、逝ってしまうことはなかろうに――
『あしたも、風は吹いていたのに…』
昭和二十年八月十五日。
玉音放送が流れ、翌月国は降伏文書に調印した。多くの国民は戦争が終わったのだと思った。
戦死の公報を聞きながらそれでも帰りを待つ家族たちのもとに、誤報によって本人が帰還する例は殆んどない。遺骨で帰ってきた者もまだいい。箱を開けたら石が入っていたという話もある。
それでも石を届けてくれた人はいたわけで、当時の様子を少なからず聞くことはできた。
男は出征した。
村里とは少し離れていても盛大に出征の見送りはなされ、そして万歳三唱と共に彼はいなくなった。
村は裏切り者を出さぬよう、監視するために女の家にやって来る。
当初、畑仕事も大変だろうと言いながら、野菜を分けてくれる者もいた。ただ陰では見張っている。いつ戦地から手紙や荷物が来ても分かるように、男が逃げ帰って隠れていないかを探るように、優しい言葉のその裏に嫌らしい瞳を凝らしていた。
若い夫婦の家は、少し大雨が降れば土砂崩れを心配しなければならないほど麓に近かった。逆にいえば田畑に使う水は潤沢である。そのため、一人きりの農作業でも米や野菜は余るほど収穫できた。
戦況が怪しくなり村の一部に疎開してくる者が増えた頃、食糧に困った村人たちは女の元を訪れるようになった。一人暮らしにその食料は多かろうと最初は遠慮がちに、次第に大胆に持ち帰る。
倉にあった保存用の野菜まで、気付けば底を突いていた。
女は中学までは通ったものの、戦争のどさくさに最後は卒業証書だけ渡された。先生に町の軍需工場で働くよう伝えられ、天涯孤独の身の上だったため住みこめる工廠を選び、ここへやって来た。
男は、その工廠で働く技術者だった。戦地に行くことはないからと話していたし、義母との三人暮らしも家族を持たない彼女には幸せなものに感じた。 しかし、赤紙は届けられた。
悲しみに暮れた義母は息子の出征を見送った後、病臥し呆気なく逝った。広いとはいえない家だったが、たった一人残された女にはその心の空洞を現すように広かった。
戦後、町には様々な仕事が再開されたが女の戻る場所はなかった。
彼女は独りだ。
種籾が残っていたので変わらず田畑を耕し、男の帰りを待っているように見えた。一方、村人は八月十五日を境に足が遠のき、蓄えがないと知ると行き来は絶えた。
やがて女の様子を知るものは誰一人としていなくなる。
そして月日は流れる。サンフランシスコ平和条約が締結され、国際法上完全に戦争を終結することが決まった。
この条約の発効は、昭和二十七年四月二十八日。秘密裡に囚われていた男は、この日、七年振りに日本の土を踏んだのである――。
荒れ果てた家だった。否、家と呼ぶのもおこがましい程の壊れ具合だ。雑草に足をとられながら、引き戸のあった場所に辿り着く。
抜けてきた村里にも見知った者はおらず、どこの馬の骨がやってきたのだという視線だけが向けられた。
妻は、何処に行ってしまったのだろう…
昭和二十年春、男に届けられた赤紙には、通常にはない意味が含まれていた。
召集された場所には滞在せず、すぐに航空母艦信濃に向かわされた。学力が優れていたわけではない。専門知識があったわけでもない。特殊任務を受けたわけでもなく、ただ工廠視察の際、男の勘のよさと、手先の器用さをその慧眼で見抜いた上官がいただけである。
男の乗艦した信濃は戦局の変化に伴い戦艦から空母に設計変更されたものだ。ところが実戦に向けての回航中に被雷転覆、そして沈没する。乗員の多くが経験の浅い新人補充兵で、半数以上が海の藻屑と消えた。
当時、最大の排水量を持つと言われた信濃は、実戦投入前にこの世から姿を消したのである。
男は米軍に海上捕獲され、そのまま信濃の設計図を知る者として米国に連行、国際法上の終戦を迎えるまで非公開の捕虜として過ごした。
終戦の話を聞いた敗戦国の兵士たちは、そのまま流れ作業のように書類にサインしそれぞれ帰国の途に就く。
すっかり平和を取り戻し暗い影のない日本に愕然としながらも、男は記憶を手繰り自宅へと足を向けたのだった――。
たぶん引き戸であった場所に立つものの、扉そのものが割れて斜めに傾いている。扉を引いたら、家そのものが一気に崩壊してしまいそうだ。
仕方なく一旦、村里へ引き返すことにした。妻の消息を知る者がいるかもしれない。急いで登った山道を、今度は足取り重く引き返す。
だが誰も知らなかった。戦後、暫くは住んでいたと言った者が数人いただけだ。
彼は再び山を目指す。泊めて欲しいと言える雰囲気はなかったから。戦後の話も少し聞く。日本ではあの年の八月十五日に戦争は終わったという。信じられない話の方が多すぎて混乱するばかりだ。
夕闇が迫る頃、漸く帰り着いた。もう中に入ろうとも思わなかった。そのまま倒れ込むようにして草に眠る。捕虜だった頃の方が断然いい扱いだったな、と自嘲した笑みを浮かべながら。
深夜。
妻を夢に見た。
母を看取ってくれた礼を言うこともなかったと改めてその言葉を口にする。六月に生まれた彼女はそれにちなんだ名を持ち、呼ぶと記憶にあるままの姿で振り返る。
夢はいい。手の届くところにいて、実際にその感触が残る。あどけなさを残す彼女は、いつか二人で温泉に行きたいと話した――。
目が覚めると、嫌な予感が奔った。
すでに家と呼べないような我が家だ。だが人がいなくなったことで、朽ちていったのだとしたらどうなるのだ。
彼女はどこへ行った。否、消えた。
あいつは天涯孤独だったのに、どこにも行く処なんかなかったのに…。
男は立ちあがると、いつ崩れてくるかもしれない家の中を捜し始めた。
いないのならいい。別の場所を捜すだけだ。ここは廃屋と化している、その事実を確かめる。
しかし男は見つけてしまった、すでに腐敗臭すらしない彼女の骸を――。
日記をつけていたことから、数年前に死亡していたことが判明した。
自分の帰りだけを楽しみに、平仮名と片仮名だけの拙い文で綴られている。それは送った菓子缶に収められ、朽ちることなく色褪せただけの形で残された。その想いと、この年月を彼女の代わりに在り続けた。
男は、警察から戻された日記だけを手に山を下りる。
「ミナ」
呟くように口にした名は愛おしく、辺りを包み込むように響いた。
(今度は、私が天涯孤独になってしまったよ)
自分のいない終戦に何を思ったのだろう。何年経っても帰ってこない、そんな男をどんな思いで待っていただろう。
記された嵐の到来に、怯える姿が目に浮かぶ。叩きつける雨音を人が来たのだと間違って、ずぶ濡れになったとも書いてある。
風雨だけではない。雷鳴轟く夜もあっただろう。台風だってきただろう。大きな地震もあったかもしれない。
日記の終わったその日には、六月の日付が書いてある。大好きな水のその月に、逝ってしまうことはなかろうに――。
きっと迎えた最期の日にも、君の好きな六月は穏やかな時が流れていたろう。そしてその次の日も、優しい風が吹いたろう。
【了】
著 作:紫 草
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