09 まゆ 著 五月病 『メイドリームにご用心』
窓から差し込む日光の角度は、もう昼近くになっていることを示していた。ゴールデンウィークが終わり、今日から学校が始まったと言うのに、わたしは布団から出ることができない。体を起こそうと肩に力を入れることも、起きた後、コップ一杯の水を飲もうと考えるのも、ましてや息をするのも面倒なくらいだった。
こんな状態が憲法記念日以来、ずっとつづいていた。それでも、昨日まではカップラーメン食べたし、シャワーを一度だけあびることができた。
蒸し暑くなってきた1LDKの部屋の中で、ベッドの中で足だけ布団から出してぼんやり天井の白いモルタルを見ている。今頃、学校のみんなは課題を提出して、生き生きと授業を受けているだろう。
好きなことを学ぶことは楽しいと思っていた。だから、父に無理を言って東京の専門学校へ入学したんだ。でも、他の人たちは生まれたときから絵筆を持っていたような人たちばかりだった。校内写生大会で金賞をもらう程度のわたしは比べものにならない画家たちだった。わたしの半分の時間でデッサンを仕上げ、わたしの倍の数をこなす。スタート時に差がついているのに、いつになっても追いつけるどころか、どんどん離されていくと感じだ。それに、連休中に仕上げるはずの課題もやっていない。もう、学校へ行く資格さえ無くなってしまったみたいだ。
今日も、布団の中でモゾモゾしているのだろうか。立ってパジャマを脱いで、ブラをして、顔を洗って髪をとかして学校へ行けば良い。それが分かっていても、初めの一歩を踏み出せないのだ。
時折、水道の蛇口から滴る雫の音が時の経過を告げ、それを聞きながら布団にもぐる。
このまま死ぬまで寝ているのもいいかなぁ、と思って目を閉じると、耳の後ろに風を感じた。窓は締め切っているはずなのにと思って、ふとんに頭をうずめると、風が耳にあたった。
これは、風じゃない……人間の息!
わたしは手で耳の後ろを払うけど何の手応えも感じない。そもそも、この部屋にはわたし一人しかいない。布団にだって一人だけだし、耳の後ろに息がかかるということは、二人いないといけないわけだし、ようするに物理的におかしな現象だ。
「こんにちは、お姫様。このまま、ベッドの楽園で、墜ちて朽ち果てましょう」
誰かいるの?
「はい。ボクは五月の夢、メイドリームと言う者です。もっとも、人には見えず人数に数えられることはありません。いるけどいない、そんな狭間の者です」
いるけど、いない。確かに布団の中にはわたし一人しかいないけど、確かに彼もいるのが感じられる。狭間の者って、あの世とこの世の間ってことだろうか。
「何しに来たの?」
「あなたの願いを叶えるために」
「願い?」
「このまま、ベッドの中で墜ちて朽ち果て無機へ帰りたいと思ったでしょう」
そんな言い方ではなかったけど、そうだったかもなぁ。
「あなたは幽霊?」
「ちがいます。メイドリーム……です。堕落しましょう。心地よく朽ちていけますよ」
彼の息が甘く耳元で囁く。部屋の淀んだ空気は、わたしの頭を混乱させる。ほんとうにこのまま朽ちるように死んで行けたらなそれはそれでよいのかもしれない。冷たい汗が背中を流れる。
「何を怖がっているのです? 死ぬのが怖いですか? 死ぬのではありません。帰るのです。人間は有機物で出来ているのですよ。それが二酸化炭素や水の無機物に分解されて空に帰るのです。あとには白い骨だけが残ります。怖がることはありません。あなたが昔いたところです。今より自由に空中に広がっていたのですよ」
彼は息と囁きだけの存在かと思っていたら、わたしの身体の上を這う指の感触が感じられた。その指は、ピアニストのようなしなやかでわたしの身体の上を走った。
「ああ、あなたは、ほんとうにいないの?」
「いないけど、いるのです」
指は二つの手となり、わたしの肌の上を這い回る。パジャマも着たままだし、着ずれの音も気配もしない。ほんとうに彼はいないのだ。
「あ、あの、あなた、男性ですよね。あまりへんなところさわらないで……」
リアルな感触につい声に出してしまう。
「男性? わたしに性別はありませんよ。それどころかいないのですから」
背中から彼の体温を感じるようになってきた。
「ほんとうにいないの?」
「ほんとうです。だから、緊張しないで、肩の力を抜いて、ボクに身を任せてください」
緊張で怒った肩の力を抜く。
「そうそう」
彼の息がうなじから耳元へかかり、指が胸のあたりをまさぐる。彼の体温、指先、息がさらにリアルに感じられるようになった。
「全身の力を抜いて、ボクを受け入れてください」
「そこは、ダメ!」
彼の人差し指と中指の指の第二関節に挟まれて声を上げてしまう。
「力が抜けちゃうよ……」
「そうです、力を抜いて、このままどこまでも堕ちていきましょう。快楽の園があなたをお待ちしています」
はああぁ……そうだ……このまま、微睡に底に堕ちていくのも悪くはない。もう、誰より下手だとか、背が低いとか悩まなくていい。
彼の指は、わたしの微睡のツボを求め、わたしの肌の上をまさぐりまわっていた。
ああ、そこはっ!
そんなところをそんなことされたら、わたし――堕ちちゃう……。
☆
そのとき、来客を告げるブザーが鳴った。
続けて、聞き覚えのある声がする。
「かなっちいる~」
「留守かな?」
「いるでしょう」
ドンドン。
「いないんだって」
「いるって」
これらの声は……新しい学校でとりあえず友達になった子たちだ。
わたしは、乱れた髪を手櫛で整えながら、ドアに向かってベットから、よろよろと立ちあがった。
「い、いま~す」とわたし。
「あれっ、声がしなかった?」
「えっ、しないよ」
「い、今、あけま~す」
入口のドアを開けると明るい笑顔が三つ並んでいた。
「どうしました? 風邪」
しっかり者のロングヘアの由美子さんが言った。
「ううん、大丈夫だよ」
「学校来ないから、心配でさ。それにしても酷い顔だな」
ショートカットの元気娘、茜さんはちょっと意地悪だ。
「カナっち、死んじゃったのかと思った~。わたしの専属モデルになってほしかったのに~」
クルクル天然パーマのミドリさんは、天然だと思う。
「オレより絵が下手なヤツがいなくなるとこまるしな」
とショートヘアの茜さんがツイ冗談を飛ばす。
「でも、よかったですわ。病気なわけじゃないようで」
と物腰穏やかにロングヘアの由美子さんは、スーッと部屋の中に入り込んで行った。それの続いて、ショートと天パも入る。
「思ったよりきれいだな」とショートヘアがきょろきょろしながら言う。
「うわーっ、カワイイベット! かなっちといっしょに寝たい~」と天パが抱きついて来た。
「カップラーメンしか食べていないの?」とロング由美子が眉をしかめる。
わたしは、ちょっと涙でにじんだ視界を伏せて、「ありがとう、来てくれて」と言った。
「学校来ないからさ、病気かと思ってさ」
「死んじゃったのかと思った」ボコッ!
「課題……やっていませんのね……」
「ああ、あれ、オレもやらなかった。ツーリングで忙しくてさ!」
「かなっちの追加課題持ってきてあげたの。ミドリもやらなきゃ、かなっちといっしょに描けたのに残念」
「それで、どうなさいましたの?」
わたしは、ひさしぶりに顔の筋肉がほころんでいるのを感じながら、本調子にならない脳力で答えた。
「あ、あの……メイ……なんだったっけ」
「メイ? ――五月? ――ご、五月病か!」と茜さん。
「あ、そんな感じ!」とわたし。
茜さんがわたしの首に腕を回す。
「わたしも~」とミドリさんが抱きついてくる。
口元に手を当ててほほ笑む由美子さん。
開け放されたドアから、五月の爽やかな風がわたしたちの髪をゆらした。 わたし、ここで、やっていけそうです。
《おわり》




