07 かいじん 著 映画 『いちご白書を一度』
午後四時を大分過ぎたけど、五月半ばの陽射しはまだ照りつける様だった。軽便鉄道の古い木造の駅舎は老朽化が進んだというよりは、もはや半ば朽ち果てかけていた。外観も、中の様子も、一見、廃駅の様に見えるけど、僕が町に引っ越して来てからの一月半程の間に、町からこちらの方角に1両とか2両連結の古くて小さな電車が狭い線路の上をゴトゴトと音を立てながら、走って行くのを何度か見かけているので 町から少し離れたこの駅も、駅として活用されているのだろう……多分。
僕はがらんとして少し蒸し暑く感じる駅の待合室の中で、一人、木製のベンチに腰掛けてぼんやりとしている。目の前の色のくすんだ壁の上の方に掛かった時計は9時40分頃で止まったままになっていて、その下に黒い板に、手書きで白く記された列車の時刻表が掲げられている。それを見ると、町と半島の南の小さな港の間を一日7往復している電車は、上下とも大体2時間おき位にこの駅に到着する事になっている。
次に南の港に向かって行く下りの電車がこの駅に着くのは16時45分だった。もうすぐ、ここに同じクラスの市原明子がやって来る事になっている。僕にはまだその事がはっきりとした実感として感じられないでいた。でも、ほんの1時間ほど前に、彼女とここで待ち合わせる話をしたばかりだから彼女はもうすぐ、ここに来るのだろう。しかし僕にはやっぱり、彼女が実際に来てみないと、先ほどの出来事が実感として感じられなかった。
・・・
今日、学校の帰り道、僕は町の商店街の本屋に寄って、店を出た時に店の前で下校途中の市原明子にばったり会った。4月の中学3年の始業時に姫路から転校して来た僕は、この町に来てから学校の外でクラスの女の子と出くわしたりするのは初めてだった。僕と市原明子はクラスで同じ班にいて、席は隣合っていた。そういう訳で、店の前で少し立ち話をした。
彼女の家は町から南に外れて、瀬戸内海がよく見える展望台がある半島の山に向かって行く方角の途中にあると言う事だった。僕はこの町に引っ越して来てから、まだその展望台のある山には行って見た事が無かった。
「海や島が良う見えて、景色がええけえなあ。いっぺん、行って見たらええわあ」市原明子が言った。
「……今度の日曜とか、もし不都合じゃなかったら、一緒にその展望台に
行ってみん?」僕は言ってみた。
僕は中学3年生で7月には15歳の誕生日を迎える事になっていたけど女の子をデートに誘ってみたりするのは、その時が初めてだった。
「私と一緒に? ……川本君と二人で?」市原明子が驚いた表情で聞き返した。
彼女はしばらく考え込む表情だったけど、その次に表情を少し曇らせた。
「今度の日曜は、ちょっと家で手伝いとかがあるけえ、駄目じゃわあ。」市原明子が言った。
「そうなん……」言わん方が良かったかのう? と僕は思った。
「……もし、何じゃったら今から一緒に行ってみる?」少したってから、市原明子が言った。
「今から?」僕は少し驚いて聞き返した。
「うん。……ほいじゃけど自転車じゃあ、よう登って行かれんけえ、電車で山の近くの駅まで行って、そこから登って行くしかないわあ。その前にいっぺん、家に帰って着替えて来んといけんけど」
そういう訳で、僕と市原明子は家で着替えて来る為に、一度そこで別れて彼女の家に近いこの駅で待ち合わせる事になった。
・・・
午後四時半を少し回った頃、待合室の外に私服に着替えた市原明子が自転車に乗ってこちらの方に近づいて来るのが見えた。私服姿の彼女を見るのはもちろん初めてだった。普段、学校の教室で見ているのと、違う雰囲気に僕は内心少し緊張した。待合室の中は少し熱気が篭っていたので、僕と市原明子は待合室を出てホームの方へ出た。
ホームの下の線路の向こう側には、この軽便鉄道が昔、ずっと北の方にある町まで伸びていた頃の名残で列車交換の為のもう一つのホームが残っているけど今は使用されていない為に草むらに囲まれている。そのホームの下の線路が撤去された跡には、雑草が生い茂った中に、どういう訳だか古タイヤが1メートル程の間隔で並べられていた。やがて町の方角に向かって伸びている幅の狭い線路のずっと先の方から白い車体に赤いラインの入った、1両だけの小さな電車がコトコトと小さく揺れながら、こちらに向かって近付いて来るのが見えた。
電車がホームに入って来て、開いたドアから乗車してみると、空いているのに少し窮屈さを感じさせる車内の雰囲気は、この電車の小ささを外から見るよりもより一層実感させた。僕と市原明子が車内に乗り込むと、運転士が音の出の悪いブザーを短く鳴らしてドアを閉めて、電車は再びゴトゴトと動き出した。
車内には運転士の他には老婆が一人と、小さな子供を二人連れた中年の女性が乗っているだけだった。僕と市原明子はロングシートの座席に並んで座った。目の前を見ると反対側の座席の斜め前に座っている老婆との距離がやたら近く感じて、まるでクロスシートの座席に向かい合って座っている様に感じるほどだった。反対側の窓の外を流れて行く景色もやっぱり近く感じる。
「まるで遊園地の電車を少し大きくしたみたいだ」僕は言った。
「ウチもこの電車に乗るのは久し振りじゃわあ」市原明子が言った。
線路は山にぶつかる手前で大きくカーブを描いて、電車はその少し先の路面電車の停留所ほどの小さな駅に止まった後、やがて山に沿ったゆるやかな勾配をモーター音を上げながらゆっくりと登って行った。しばらくすると、窓の外の右手の方に、すっきりとした青さの瀬戸内海が広がっているのが眼下に見えて来て、左手の方に僕らの暮らしている町の町並みが眺める事が出来た。海の少し沖合いの方には三角錐の形の島と、鯨が浮かんでいる様な形をした島が見えた。
☆
電車は瀬戸内海と僕らの暮らしている町の遠景を眼下に眺めながら、山に沿ってずっと走り続け、やがて半島の先端に近い場所にある駅に到着した。僕と市原明子が車内で電車賃を払ってその駅のホームに降り立った時には、もう太陽はだいぶ西に傾きかけていた。
僕らは駅を出て山の斜面の階段を降りていって、少し下を走っている海岸通りの方へ出て、そこから展望台の登り口がある方に向かって歩いて行った。展望台まで歩いて登っていくまでの間、僕は市原明子はいろんな話をした。僕は前の学校にいた頃から、クラスの中では目立たない方だったしクラスの女の子と親しく会話をする様な事なんて、それまで殆ど無かった。大体、いつも一体何を話せばいいのか、よくわからなかったし、上手く言葉が出て来なかった為に、そういう時には大抵の場合、意味も無く緊張した。しかし今の 学校に転校して来て、市原明子とだけは、どういう訳だかごく自然に普通に話す事が出来た。
僕がクラスの女の子にそんな風に接する事が出来たのは、彼女が初めてでそのおかげで、僕は学校で過ごす時間を、それまでとは違った気分で過ごす事が出来た。
・・・
展望台に着いた時にはもう陽は、ずっと西の方の霞んでいて水平線とも地平線ともつかない辺りの真上くらいの所にあった。今日が平日だからなのか、閉店時刻が早いからなのかわからないけど展望台の近くにある売店のシャッターは降りていて、自動販売機が並んだ辺りにも展望台の方にも、誰もいなくて周囲はがらんとしていた。
僕らは展望台の方に行って、そこから見える風景を眺めた。西の方の海面の夕日を反射させいる部分の波がきらきらと光って見えてその方角にある、たくさんの島が影になってくっきりとした輪郭で見えた。展望台のすぐ真下の辺りの海上を貨物船が航跡を曳きながらゆっくりと東に向かって進んで行った。
東の方の海は淡い青さで静かに広がっていて、淡い陽光を受けたいくつかの島がうっすらとした青さで見えた。そのずっと向こうには四国の山並みがずっと遠くの方まで広がっている。温かみのある色合いと静けさが入り混じった景色の中で時間はゆったりと穏やかに流れて行った。
市原明子は肩までの髪を風に靡かせながら、食い入る様に目の前の風景に見入っていた。
「まるで映画の一シーンを観ているみたいだ」僕は言った。
「ほんまに、映画とかに出て来る風景みたいじゃなあ」
僕は他に誰もいない展望台で、彼女と二人っきりで夕暮れの海を眺めている事が何だか現実から切り取られた、特別な時間の流れみたいに感じて、そう言ったのだけど、その事はどうも上手く言えそうも無かったので何も言わなかった。
「川本君は、映画とか観るの好きなん?」
しばらくして市原明子が僕に聞いた。
「そんなにたくさん映画を観たりとかはしてないけど、映画を観るのは好きかな」僕は答えた。
「『いちご白書』って映画観た事ある?」
「『いちご白書』って、あの歌に出て来るやつ?」僕は『いちご白書』って映画がある事は、歌で知っていたけど、実際にそれを観た事は無かった。何と無く、その映画は歌の歌詞のイメージから悲哀を描いた恋愛映画なんだろうと思っていた。
「ウチも、どんな映画なんか、よう知らんけどいっぺん観てみたいわあって思うんよ」市原明子が言った。
そう言えば僕もあの曲を聴く度に、『いちご白書』と言うのがどんな映画なのかよく気になった。ビデオ店に行けば、すぐ借りられるのだろうけど、出来ればそれが再上映される事になって、僕はその映画を彼女と一緒に見に行きたいと思った。
出来る事なら、これからのたくさんの時間をいろんな場所で彼女と一緒に過ごしてみたいと感じた。
「……急に決まった事なんじゃけどなあ」
少したって市原明子が言った。
「ウチ、来月九州の方に転校する事になったんよ」僕は驚いて市原明子の方に振り向いた。
彼女は展望台から見えるずっと先の方、対岸の遥かに霞んで見える四国の山々の上に広がった空の辺りをじっと眺めていた。
「そうなんか……」 僕はそう言った後、次に何と言ったらいいのかわからず、なかなか言葉が出て来なかった。
「そうか……それは寂しくなるなあ」しばらくしてから、ようやく僕は言った。
「ウチは、生まれてからずっとここで育って来たけえなあ。ここを離れる事になるんはほんまに寂しいわあ」僕は何だか心の中に空白が拡がって行くのを感じながらも、僕自身つい最近転校して来たばかりなので彼女の気持ちはわかる様な気がした。
「市原さんが遠くに行くんは残念じゃけど……向こうに行ったら向こうでまた新しい楽しい事がたくさんあるじゃろう」彼女と同じ方角を眺めながら僕は言った。
・・・
結局、僕らは電車だとかなり帰るのが遅くなってしまうので、刻々と夕闇が迫る中を歩いて山を下りて海岸通りを自転車を置いた駅まで戻って行った。その途中、競艇場の所まで来た時にはまだ空は結構明るかった。今は開催期間中じゃ無かったし中の建物にも人がいる様子は無くてがらんとしていた。通用門のゲートの格子の間隔の幅が僕なら潜り抜けられそうな気がしたので僕はそこを潜り抜けてみようとした。頭は何とか抜けられたけど無理そうだったので結局諦めた。しかしその後、僕は頭が格子から抜けなくなってしまい、しばらくの間、僕は頭を格子に突っ込んだまま必死にもがき続ける事になった。
その間、市原明子は僕の無様な姿を見て腹を抱えて笑い続けていた。「あー可笑しかった。……あの変な格好、何か忘れられんわあ」何とか頭を引き抜いて再び歩き出した時もまだ市原明子はしばらくの間笑い続けていた。その後、最後に途中にあるラーメン屋でラーメンを食べたりしたので駅まで戻った時にはもう真っ暗になっていた。
「何か遅くまでつき合わせちゃって悪かったなあ」僕は謝った。
「ううん、今日は何かいろいろと楽しかったし、転校する前にええ思い出が 出来たわあ」市原明子が言った。そして僕らはそこでわかれて、闇の濃くなった5月の夜空の下をそれぞれの 家に帰って行った。
・・・
一ヵ月後、市原明子は北九州の方へ転校して行った。
僕が初めて『いちご白書』を観たのは高校を卒業して大学生になって上京してからの事だった。彼女はその後、『いちご白書』を観たのだろうか。そして、彼女はあの時の事をまだ覚えていたりするのだろうかとか考える。
了




