09 まゆ 著 夜桜 『笑顔になれるまで』
昭和二十年、日本は戦争をしていました。アメリカ軍による空襲が頻繁になり、あちらこちらの都市が焼かれたという噂が飛び交っていました。わたしにとって、そんなことを気にする余裕は無く、被服工場への出勤と父の具合が気がかりでした。
わたしが勤める工場では、兵隊さんの服を作っていて、昼夜を問わず交代制で勤務していました。その日は父の具合が悪く、わたしの夜勤の番でしたが、仲良しの小夜ちゃんに替わってもらったのです。
小夜ちゃんは小さい頃からの友達で、いつもわたしを助けてくれました。わたしも悪いなと思いながら、小夜ちゃんに甘えていたのです。その日も、小夜ちゃんはニッコリと微笑んで「いいよ。お父さんについていてあげなよ」と、快く夜勤を替わってくれました。
日が少しずつ長くなって行く季節ですけれど、夕闇が迫ると肌寒さを感じる頃でした。となりの町に小規模な空襲があったというので、灯火管制された町は闇が支配しているように静かです。
「そろそろ、桜が咲いているんじゃないか? 死ぬ前に花見がしたいな」と父が枕の上で言いました。
「うん。たぶん咲いてる。工場の周りに桜の木がたくさんあるけど……そんなこと気にしている暇がなかったよ」
「そうだろうな。今は戦時だ。戦争が終わったら、花見をしたいな」
「お父さん、今は身体を治すのが先でしょう」
起きあがることも出来ない父が、幾つもの春を待っていることが出来ないことは分かっていました。
わたしは立ち上がり窓を開け、高台にある工場の方を見ました。地上に光は無く、それと対照的に星空が広がっています。それを切り取るように工場がある丘の黒々とした影がそびえていました。その頂にあるはずの工場とそれを囲んでいる桜の木は、地上の闇に溶けて見ることができませんでした。
「お父さん、夜じゃ桜は見えないね」
わたしが、そう言って振り向くと父は咳き込んでいました。父の手にした手ぬぐいに血が付いているのを見ました。
「お父さん、きっとすぐに戦争が終わるよ」
戦争は終わらないことは分かっていました。誰の目にも、日本に分が悪い状況にあることは歴然です。日本が勝って終わるとなると、不利な状況から巻き返しさらに相手を追いつめなければなりません。もう何年も戦争をしていますが、さらに年数がかかるでしょう。父は生きて花見をすることが出来ないことは明白でした。
父は目をつぶり、うわごとのように花見の思い出を語り始めました。
学生時代に酒の飲み比べをしたこと、花見に言ったら母が団子を三本も食べておどろいたこと、花吹雪のおいらんに歩きながら見とれて木に激突したことなど、弱々しい口調でゆっくりと話すのです。目を半開きにして話す父は、夢の中にいるような、別の世界を見ているような表情をしていました。
そのとき、けたたましい警鐘が鳴り響きました。空襲警報です。
「お父さん、また、となりの町が空襲を受けているのかもしれないわ」
「俺のことは良いから、お前は早く防空壕へ避難しなさい」
「何を言っているの。こっちには来ないわよ」
すると、地を揺さぶるような爆音が近づいてくるのを感じました。爆撃機のエンジンの音だと分かりましたが、こんなに近くで聞いたことがありません。
外の様子を見ようと戸口から飛び出すと、星空に大きな爆撃機の影が幻灯のように浮かび上がって見えました。それは、わたしの上を通り過ぎて行きました。やがて、丘の上に火の手が上がり、オレンジ色の炎が燃えさかるのを見ました。
「小夜ちゃん!」
それは、丘の頂に建つ、私たちが勤めている被服工場でした。オレンジの炎に浮かび上がる工場は、白く光っているように見えましたが、それは桜の花びらが舞っているのだと気がつきました。焼夷弾の作る猛火が激しい気流を発生させ、工場を取り囲んだ満開の桜の花びらを夜空に巻き上げているのです。
「小夜ちゃん、小夜ちゃん!」
わたしは、真っ暗な道を、桜の渦めがけて走りました。
「死なないで!」
しかし、上り坂を急に駆け上がったものですから、心臓が破れるのでは無いかと言うくらい脈打ち息が上がって走れなくなりました。
後ろから来たおじさんが、わたしを捕まえると「そっちへ行ったらいけない。アメリカのねらいは被服工場だ」と言いました。
わたしはそのとき、自分が行っても何もできないことを悟りました。
救援の消防隊の人たちとすれ違いながら、トボトボと家に戻るしかありませんでした。
家の前では、父が立って丘の上の方を見ていました。
「ああっ、すごいぞ! すごいぞ! 桜の渦ぞ! 炎と桜が狂ったように踊っておる!」と叫んだかと思うと口に手を当て咳き込み、指の間から血がしたたり落ちました。
「お父さん、無理をしちゃダメ。家に入って」
お父さんを布団に寝かせてから、丘の上を見ました。
炎は衰えることを知らず、丘がたいまつになったようです。少し前の東京大空襲では、池の水も干上がり、人間は炭のようになったと聞いています。わたしは、小夜ちゃんが無事なことを祈るしかありませんでした。
そんなことがあってから、平成の世まで生きながらえている間、わたしは夜桜を見ることができませんでした。子供にせかされても、孫にねだられても、夜桜見物など恐ろしくて行けないと思っていたのです。
しかし、わたしが生きていられる時もあとわずか。わたしの脳裏にある夜桜の下の光景は地獄そのものでした。それを打ち消したくて介護施設の観桜会に連れて行ってもらうことにしたのでした。
桜の名所として知られる公園に向かうバスの中からわたしの身体は震えだしました。
会場へ着くと恐ろしさに歯がなり出しました。
「おばあちゃん、寒いの?」
看護士さんが車いすに腰掛けたわたしの肩と膝に毛布を掛けてくれました。わたしは首を横に振り、顔を上げて光景を見ました。
まばゆいばかりに輝く桜の下で、老若男女が楽しそうに笑っているのが見えました。わたしの脳裏にある、逃げまどい焼かれ蒸発していく人たちの群れはそこにはありませんでした。涙が溢れてきて、よく光景を見ることができません。胸が締め付けられるように痛み吐き気がしました。
「お願い。まだわたしを連れて行かないで」
わたしは心の中で祈りました。
「おばあちゃん、大丈夫ですか? 急に夜風に当たったのがよくなかったのね」
看護士さんは、わたしをマイクロバスの中へもどしてくれました。
わたしは、動悸が収まっていくのを感じながら、こう思うのでした。
あと一年、長生きしてみよう。
そして、あの夜桜の下で笑えるようになってから小夜ちゃんに会おうと……。
《おわり》




