05 紅之蘭 著 ジレンマ 『アラビアのロレンス』
ジレンマは絶えず傍にいる。エジプト・カイロでの内勤期に、たまりまくった休暇をあてがって、聖地メッカに向う使節に随行するときでさえも、それは存在した。
アラブ人には、都市に住む市民と、砂漠地帯を動く遊牧民・山岳民とがいる。誰が支配しようと市民は戦いを好まない。反乱軍・メッカ第三王子ファイサル将軍に従う遊牧民・山岳民は給料を払うだけでは満足しない。勝てば戦利品を要求する。とある部族長は、英国が支援のため陸揚げした弾薬・物資を自分の部族が住む村にせっせと運び込み蓄えた。事態を知った王族が、手勢を率いて村を囲み、裏切り者を敗走させると、村からたんまりと、それがでてきた。
ヒジャーズ地方は、聖地北方にある渓谷地帯で、花崗岩や玄武岩といった溶岩が地表に剥きでた荒地だ。そこらあたりをファイサルが管轄していた。
僕・ロレンスは、ファイサル王子の軍勢に飛び込んだ。白いラクダに乗った王子の横にくると、彼は望遠鏡を貸してくれた。
「手勢は八千人、一割が遊牧民で、残りは山岳民だ。彼らは、銃撃戦に長けた戦士で、どんな過酷な状況下にあっても忍耐強く命令を守る。トルコ軍と戦うとき、有利な位置に身を置くため、彼らは敵の銃弾にさらされることを恐れもせずに、勇敢に崖をよじ登る。個人としてはずばぬけた戦士の資質をもっている。ところがだ。大砲が、一発、どかん、となると、蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑うだけになる」
戦闘機が空から襲ってくるときもそうだった。死ぬのが怖いのではない。魂を持たぬ機械ごときに、人である自分が、一瞬にして吹き飛ばされるということが、堪らない。砂漠の戦士たちはそう考えた。
僕は望遠鏡を王子に返した。王子は表情を変えない。だが痛恨の一撃と感じないわけはなかろう。最大のジレンマはそれだった。
将軍ファクリ・パシャ麾下のトルコ帝国軍はドイツ流に教練され、近代化兵器を備えている。中世レベルのヴェドウィンたちが、まともに戦って、勝てる相手ではない。シリアのダマスカスからメッカの巡礼のために建設された巡礼鉄道はメジナまで完成している。反乱討伐のため南征を開始した帝国軍は破竹の勢いでそこまで奪回したのである。反乱軍の拠点・聖地メッカは、帝国によって蹂躙されようとしていた。その寸前で事件が起った
そのとき、ニュースが飛び込んできた。宿営地テントに駆け込んできたのは遊牧民上がりの士官だった。
「どうした?」
「城市に籠っていた部族がいた。族長は、『自分の部族を襲わないなら』という条件で、トルコ帝国の軍門に下った。ところが、帝国軍は約束を破って、投降してきた部族兵士を虐殺した。次いでそこの部族八百人が住んでいる集落を襲い、女を強姦殺害し、物資を略奪、家々を焼いた。その炎の中に、炎の中にだよ。子供や老人まで、生きたまま炎の中に放り込んで皆殺しにしたんだ」
アラブ人だって、略奪を働く。だが、こういうやり方はしない。女は連れ去るだけだ。ラクダに載せられるだけ略奪はするが、積み切れない物資は置いてゆく。子供や老人といった非戦闘員を手にかけない。それが流儀だった。
ファイサル王子麾下の反乱軍は、流儀に反した敵・近代軍隊の戦術に戸惑い、対策を講じるため、戦略的な撤退をせざるを得なかった。非道なことは誰にも支持されはしない。それまで日和見だった全アラブ部族は、投降者をも皆殺しにする帝国軍の仕打ちに憤り、否応なく反乱軍に身を投じることになるのだ。
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