09 真珠 著 蛙 『カエル組さん』
ここは、干支の露天風呂……じゃなくて、スイミングスクールのプール片隅のジャグジー風呂。大理石の真似をした、みどり色のプラスチックの浴槽は、ホームセンターで気軽に買えそうな代物だ。それでも、周りに焦げ茶のラティスやら、観葉植物やらを配置していて、南国リゾート感を演出しようとしている。
こんなところに干支の神がいるのかって? どうやら、いる。そのジャグジーの中に。
丑の桃香は、ほっそりしているが、乳が大きい。支給された競泳水着は、体を締めつけるタイプのもので、ウエストがスッキリとする分、無理矢理おしこんだ乳房がやけに目立つ。本人は太っていると錯覚しているが、胸がデカイだけで、他の人から見れば羨ましいナイスバディ。まだしばらく順番のまわってこない干支の神の桃香は、人の世を学ぶことにした。
夫はあまり良い顔をしなかったが、桃香の世間を知りたいという願いに、つい、甘やかして聞き入れてしまった。人間の水練の学び舎で、泳ぎを伝授するという。確かに、桃香の泳ぎは達者だった。とにかく可愛くて仕方のない愛妻を、人間の目になどさらしたくなかったのだが、彼女の機嫌を損ねるのは、もっといやだったのだ。桃香は好奇心が旺盛で、夢中になるのも早い。そして、飽きるのも早いことを夫は知っている。
朝イチの水泳教室が始まる前のひととき、桃香はこのジャグジーに浸かって体を温める。桃香は、成人の上級コースの担当なので、ほとんど自分は泳ぐことはなく、メニューの作成と、フォームのチェックが仕事だった。水温が30度近くあるとはいえ、やはり体が冷える。
(あまり冷やすと、良くないのかしら……)
桃香は、先輩のおばちゃまコーチ達の皮下脂肪を思い出し心配する。彼女たちは、もれなく、ふっくらと柔らかそうな肉体だ。
専門学校から入ってきた若いコーチは、まだスラリとした体をしているが、20年後には立派な霜降りに育つかもしれない。
ちょうど中間の世代の桃香は、美容の分かれ道にいるようなので、地道に努力している。
「おはよう御座います。今日も真っ赤ですね」
上級クラスの会員から声をかけられる。朝イチのクラスには珍しい、男性だ。
「あ、私、冷えやすいみたいで、もぅ、困っちゃいます」
桃香の肌は、ピンクに染まっている。
「ほらー、ももコーチ、行きますよっ」
「あ、はいっ」
先輩コーチに声をかけられ、桃香は男性会員に軽く会釈すると、慌ててプールサイドへ出て行く。ビート板の枚数を数えながら、先輩コーチが言った。
「さっきの水野さんってさ、会計士なんだってよ。自分の事務所開いてるみたい。時間の自由がきくのね~。いいわね~」
「それで、こんな朝イチからいらっしゃるんですね。珍しいですよね、朝から泳いでる男性って」
「彼、男前よね。私、惚れちゃうかもっ。私が上級みたいわ」
「あはは、そんなこと言っていいんですか」
桃香は笑いながら、別のことを考えていた。
翌日の午前。
「カエル組さぁーん、こっちですよー」
スイミングスクールの2階にある体操室には、ざっと40の小さな頭が並んでいた。みんな可愛らしく、お揃いの水着を着ている。保育園の4歳〜5歳児の団体様だ。ちっともじっとしていない。これから、水に入るという興奮だけではない。今日は祝日にあたるが、水泳教室は通常どおり営業している。仕事休みの両親が見学に来ている子が多い。普段から、やんちゃな子たちが、大好きなお父さん・お母さんに見てもらえて、ハイになっている。
桃香の担当は、カエル組さんで、そのうちの13人だ。この上なくテンションの上がった彼らを見て、桃香はぞっとする。
(怪我なく、終えられるだろうか……)
特に動きが激しい、ブルーの水泳帽は男の子。ピンクの水泳帽は、一応いうことを聞いてくれるようで、列になって座っている。
「さぁ、体操しますよぉー!」桃香は大きな声を出す。「はーぃ、座ってー、足バタバタバタぁ~」
体操室の両脇には、ニコニコした親たちが並んで座っており、子供たちの顔は、だいたいそっちに向いたまま体を動かしている。
器用だな、と桃香は思う。
「おっぱーい!」
「きゃあ」
いきなり、小さな手が桃香の乳房を鷲掴みにした。
「こら、もー、だめだよ。もー、倫くん」
おっとりと困った顔で笑いながら引き離す。桃香の体型を考えると、素直な子供なら手を伸ばしてしまうのも頷ける。
プールへ移動する間も、倫くんのおっぱい攻撃は止まない。
「もー、だめだよぅ」と阻止する。
すると、横から、「こらっ、倫。やめなさい」真っ赤な顔をした、綺麗なお母さんが止めに入った。
「もう、倫、恥ずかしいよっ。すみません、コーチ」
「大丈夫ですよー、倫くん、がんばって泳ごうね。お母さんにかっこいいとこ見てもらおうね」
トイレとシャワーを済ませて、いざ、プールへ。
いつもは何もないプールサイドに、パイプ椅子がずらりと並んでいる。
そこに親たちが座って、日頃見ることができない、我が子の成果をみるのだ。ビデオカメラ片手に。濡れると滑りやすいので、転倒させないように、特に注意を払う。
親の前で流血させるわけにはいかない。水中でも、溺れないように、いつも以上に注意を払う。親の前で沈ませるわけにもいかない。 プールを浅くするために設置した赤い台の隙間を2メートルほどあけ、本格的な練習が始まる。
隙間をジャンプして、蹴伸びをする練習に入ったとき、また倫くんの悪い癖がでた。倫くんがジャンプしてくるのは、常に桃香の。「おっぱい!」いつもの倫くんじゃない。
今日はテンション上がりすぎて、おかしくなっちゃったのかな、と桃香が思い始めたとき、「倫」パイプ椅子から立ち上がり、顔を青くした水野さんが水際にいた。
隣には、さっきの綺麗なお母さんがいる。
「倫、ちゃんとやらないなら、帰るぞ」
桃香は、上級コースに来ている水野さんが倫くんのお父さんだと、この時初めて知った。
「あ、水野さん、大丈夫ですよぅ、ね、いつももっと上手だもんね、倫くん」
叱られて、縮こまった倫くんは桃香の首にしがみつくようにして抱きついている。
「や、今日はもう上がらせます。すみません」青い顔のままで、水野さんが言って頭を下げた。倫くんは、両親に連れて帰られてしまった。
その後、何事も無く保育園児クラスは終わった。コーチ室に戻ると、ロッカーで着替えながら先輩たちが今日の出来事について話していた。
「やっぱ、水野さんって紳士だよね。息子がおっぱい星人してたのが、耐えられなかったのかね~」
「神経質なんじゃない?」
「ちょっと青ざめてたしね」
きゃっきゃと、井戸端会議だ。
「あら、ももコーチ、災難だったね~」
「私、倫くんって水野さんのお子さんだって知りませんでした」
「わかるわかる、ぜんぜん似てないもんね。あはは」
「お父さん、超クールで男前なのにねぇ、息子、どうした! わはは」
桃香は着替えながら、思う。違うよ、そっくり。いつもジャグジーで声をかけられるときの、水野さんのねっとりとした視線。確実に、胸元に向けられている。それに、桃香も気づいていたが、考えないようにしていたこと。上級クラスで、背泳ぎや平泳ぎの時に桃香の前を通り過ぎるときに触れるような感触。倫くんの事があって、やっと確信する。父子そっくりじゃん!
(さて、どうしましょ。誰かに言うべきか、クラス担当変えてもらえないかしら……)
桃香は悩む。人の世で揉まれ、人の世を学んでいる。
了




