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自作小説倶楽部 第6冊/2013年上半期(第31-36集)  作者: 自作小説倶楽部
第33集(2013年3月)/「蛙」&「蜜蜂」
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07 まゆ 著  蛙 『足が生えて最初にすること』

 近代的な病棟に見下ろされた大学病院の前庭に十数人の一団が歩み出てきた。

 先頭は、車いすに乗った老婆である。

 すぐ後ろに付添いの看護師、そのあとに続くのは白衣をまとった初老の男、この大学病院の医院長であり大学の名誉教授でもある石崎である。

 そして、幾人かの教授、准教授たち、そのあとには若い大学院生の集団だった。

 老婆は、冬枯れの芝生の前で車いすを止めた。車いすは手元のステックで自在に操作できる構造だった。

「よく晴れてくれたわね」

 老婆はそういうと青空を見上げて眩しそうに目を細めた。

「先生、寒くないですか」

 看護師が老婆に話しかける。春が近いと言っても、まだ木々の芽も吹いていないのだ。

「大丈夫よ。お日様が暖めてくれるもの」

 老婆は、自分の身を気遣ってくれた看護師に笑いかける。

「先生!」

 今度は医院長の石崎が進み出た。

「わたしは、この技術に絶対の自信をもっております。先生が自ら実験台になっていただけるとは……」

 還暦をとうに越えた石崎の目が涙にぬれて赤らんでいた。

「何をおっしゃるの。石崎さん。実験台だなんて……わたしはひとりの患者でしかないのよ」

「いたみいります」

 石崎は、老婆に腰を九十度に曲げお辞儀をする。

「あなたが一番、ご苦労なさったのですから……わたし程度がお手伝いできて、本当に光栄だわ」

「そう言っていただけると、今までの苦労も報われる思いです。ただもう少し早く完成していたら……」

 石崎は老婆の顔を見つめ、そして冬枯れの庭を振り返った。


 石崎は二十年前のことを思い出していた。

 この老婆、当時六十五歳の五十川教授が退職するときに言ったのだ。

「わたしの後は、あなたにお任せするわ。あなたなら、きっとこの研究を引き継いで立派に完成させてくれると信じている」

「先生、退職なんて……研究者に退職なんてありませんよ。まだやれます。まだ、教えていただきたいことがたくさんあります」

「無理を言わないで。わたしはもう精一杯。両足がない女が過酷な研究機関で働くなんてこれで限界よ」

 五十川には両足がない。若いころ、事故で失ったのだと言う。そのお蔭で研究に没頭できたのだと五十川は笑うが、健常者には想像ができないような苦労もあるのだろうと石崎は唇をかんだ。

 五十川の灰色がかった目は遠くを見つめていたが、まだ未来を見つめる光を失ってはいないと石崎は思った。

「これからは、患者としてお世話になるわ。この病院に入院するの。あなたがこの足を治すのよ」

 五十川が太ももを叩いたと思うと、義足の乾いた金属音が鳴り響いた。

 五十川と石崎が研究していたのはIPS細胞と呼ばれるものであった。

 人間一人は約六十兆個の細胞からなると言われているが、元をただせば一つの受精卵細胞から分裂してできたものである。そこから、脳、脊椎、神経などの神経系、心臓、肝臓、胃腸などの内蔵系、筋肉、皮膚、骨、毛などの多種多様な細胞に変化して増殖する。しかし、一度、変化した細胞はそれ以外に変化できなくなる。肝臓の細胞からは肝臓の細胞しかできず、皮膚の細胞からは皮膚の細胞しかできないのだ。

 しかし、皮膚の細胞を取り出し、それを卵細胞のように他にも変化できるようにする方法が開発された。

 それによって作り出された、何にでも変化できる細胞がIPS細胞と言われるものだ。

 これを使えば、失われた器官をその患者の細胞からつくりだし移植することができる。自分の細胞であるから拒絶反応もなく生存率も飛躍的に向上するはずである。

 そして、五十川が研究していたのは、人間の手足を作り出すことだった。

 肝臓や皮膚や血液などの同一細胞の塊であれば、たやすく誘導できる技術は確立していた。

 しかし、足一本まるごととなると、話は違ってくる。

 骨、筋肉、皮膚(爪や毛)、血管、神経など多種多様な細胞が秩序だって成長し正常な足を形成しなければならない。それは、医学の常識を超えた技術のように思えた。しかし、完成たらノーベル賞ものの画期的な技術だろう。医学者としての野心が騒いだのも事実だった。

 それから、石崎は、五十川の研究を継いだ。行き詰ると病室に足を運び助言を乞い慰めをもらった。

 胎児の足から、赤ん坊の足へと研究が進んだ。

 問題は、大人のサイズの足を作るのには少なくとも十数年かかることだった。成長を促進させようと思うと細胞から癌が発生する。むしろ、成長を押さえてゆっくりと分裂させるしかなかった。

 そして、幾年月を重ね五十川の右足と左足を作り出すことに成功したのだ。


 老婆は、太ももを叩くと、「ちゃんと感じるわ」とほほ笑みを漏らした。

「ほら」と言って、足を上げて見せた。

 白い足首がひざ掛けからのぞいた。

「移植された後も痛みはないの」

 老婆は、車いすの肘掛けに手をつく。

「気をつけてください」

 立ち上がろうとする老婆に石崎は手を貸しそうになる。

「大丈夫、一人で立てるわ」

 その手を制し、老婆は椅子から腰を浮かせた。

 いつの間にか、群衆が老婆を取り囲んでいた。

 老婆は、二本の足で芝の上に立っていた。

 群衆から、感嘆のどよめきが起こった。

 老婆が一歩踏み出した。

 そして、二歩、三歩と、冬枯れの芝の上を歩いていく。

「成功です! 先生! お見事です!」

 石崎が、涙声を出す。

 すると突然、老婆が走り出した。

 あっけにとられる群衆。

「せんせーい、あぶないですっ! 走ってはいけません」

 石崎は、慌ててあとを追う。

 老婆は、ニ、三回飛び跳ねたかと思うと、群衆に振り返った。

 肩で息をつきながら満面の笑みを浮かべて言った。

「だって、おたまじゃくしに足が生えてカエルになると一番最初にすることは飛び跳ねることだと思うのよ。それに心配しないで。上は八十過ぎのお婆ちゃんだけど、足だけは十代なのよ」

 石崎は苦笑して、「次は足から上の方を作らせていただきますよ。十代のと取り替えましょう」と言った。

 一団から笑いが起こり、拍手が春の青空に響いた。

 《おわり》

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