05 E.Grey 著 蜜蜂が消えた 『公設秘書・少佐』
麦わら帽子をネットで覆った老人が養蜂の巣箱を開けた。どっさり、蜜がつまっているはずだ。しかし思惑とは裏腹に、妙に軽い感じがしたのだ。
「蜂が……いない……。な、なんでだ!」
日本が高度経済成長期に入った昭和四十年代だ。
長野県の山間部にある月輪村では、アカシアの樹が花をつけていた。猫背の和田オンジは養蜂業で生計をたてていた。いつものように巣箱を開けたとき、あれほどいた蜂が、全く、いなくなったことに気づいた。
村長は、養蜂業者の蜂が謎の消滅をするという事件の解明して欲しいとの陳情を和田オンジから受けた。実をいうと、この手の陳情が最近多く、早速、懇意にしている国会議員センセイに電話をかけ、関連研究機関にコンタクトをとるように陳情した。こういう場合、村役場との折衝には、決まって、あの、公設秘書がセンセイの代わりにやってくる。
若い女性車掌がいるボンネットのバスが、村役場前のバス亭前に停まった。降りてきたのは、黒スーツの男だ。衆議院議員公設秘書に佐伯祐という男で、身長は百九十センチ前後というところか。
出むかえたのは三輪明菜という役場職員である。ブラウスに灰色のチョッキを羽織り、スカートがセットになった事務服。黒いロングソックスに底の低い黒靴を履いている。肩まで伸ばした髪で細面、丸眼鏡をかけていた。なんとなく、アカぬけていない。
灰色のチェックが入った事務服の明菜が、「何分に失踪事件の被害者は人間ではなく蜂。犯罪というよりは、どちらかというと自然現象といいますか……」と眼鏡を上げ、事務的に言った。
負けずに黒スーツの佐伯祐が、「センセイは東京でお忙しい。いつものように、お話は、私、佐伯が伺いましょう」と無表情で切り返し、「しかし、明菜君。どうしていつも君は事務的なんだね」と続けた。
「少佐、人のことはいえませんよ」女子職員は答えた。
佐伯はどういうわけだか、明菜からそう呼ばれている。背丈のある青年は、両手の人差し指で口の端をつまんで、「笑えますよ」という。
白目をむけている眼鏡の明菜も真似して、両手人差し指で、口の端を上げ、笑う素振りをして対抗した。
村役場はブロック塀と桜の樹で敷地を囲っている。ブロック塀の門扉のところに、寄棟平屋の建物がある。守衛小屋なのだが実のところは無人だ。そこの陰から突然、棒を持った青年が襲い掛かってきた。Tシャツに短パン、サンダル履きという格好だった。
佐伯はセンセイのボディーガードを兼ねているので、田舎の暴漢をねじ伏せるなどたやすいことだった。青年がもがいていると、通りかかった軽トラックが砂利道の横に停まった。
乗っていたのは大規模な果樹園を営んでいる金富という村一番の資産家だった。金富氏も青年とさして変わらぬ、Tシャツ姿だった。運転席から半身を乗り出して佐伯に詫びる。
「こいつは和田オンジの孫で、ちょっと、気が触れてるんだ。許してやってくれよ、少佐」
田舎という世界は強力なネットワークをもっている。隣の家が百メートル離れていても、小学生の子供が風邪を惹いたことや、婆様が敷居でつまずいて転んだことまで知っているのだ。この村出身で東京に住んでいるセンセイが、自分の代理人として、よく派遣する男のことが話題にならないはずがない。無表情なのが玉に傷だが、背が高く、ハンサムだ。佐伯が来ると、村の女性・幼稚園児から九十九髪の老婆まで浮き立つ。
村人たちはなぜだか、佐伯を、「少佐」と呼んだ。そして、村女性では明菜だけが、浮き立たなかったのである。
小柄ではあるが日に焼けた筋肉質の中年男・金富氏は、「表に出てきて、オンジに叱られねえのか。ウチさ送ってやる。乗れ」というと大人しくなった。
佐伯に組み伏せられた青年は目が座っている。顔見知りの金富氏に腕を引っ張られ、軽自トラック助手席に押し込められる。
金富氏は、「じゃっ、少佐」といって、アクセルをふかす。
砂利道に砂埃が上がった。走り去る軽トラックを見送る佐伯と明菜は、げほげほ、と急き込んだ。
役場近くにある唯一の旅館に滞在した佐伯は、早速、村役場の所用車である自転車を借りて、明菜をお供に和田オンジの養蜂場を訪ねた。出迎えた老養蜂家の後について、巣箱の設置場所にゆく。周りには花畑があり咲き誇っているというのに、蜂の羽音というものが全くしない。
明菜がいった。「ね、変でしょ、少佐?」
「確かに変だ」
佐伯はいつごろから蜂がいなくなったのか、近隣の養蜂業者での蜂の失踪事件はなかった。女王を中心とした蜂の群れはコロニーと呼ばれる。働き蜂がいなくなって世話をする者がいなくなったので女王蜂は餓死していた。遺骸をピンセットでつまみ、巣の素材の一部を採取して、蓋つきガラス小箱・シャーレに収め、鞄にしまった。
和田オンジの家でお茶を御馳走になった。
「お孫さんは?」
「ああ、ときどき発作を起こすんで、蔵に住まわせています。ふだんは大丈夫だが、ひどいときは、暴れるんで錠をかけて閉じ込めることもある。金富さんから聞いたよ。悪いことをしたね、少佐」
蔵から、悲しげな遠吠えのような声がした。
佐伯と明菜は互いに顔を見合わせた。
自転車での帰り路。砂利道を二台の自転車が走って行く。役場に戻る途中、金富氏の果樹園の前を通った。ネットで覆われた林檎畑があり、金富氏と雇われた農夫たちが、忙しそうに殺虫剤を散布しているのがみえる。
「これだな」自転車を停めた佐伯が呟いた。
「え、殺虫剤が原因……」
佐伯は事件の目星をほぼつけたようだ。東京に帰ると、センセイが懇意にしている農大の教授とコンタクトをとり、女王蜂の遺骸と巣材の一部を入れたケースを預け、分析してもらった。するとネオニコチノイド系農薬が検出された。
教授の分析によると、この農薬は白蟻の駆除に用いられ、噴霧にさらされたあらゆる虫は、白蟻同様に、方向感覚を失って死に至る。人間には無害とされているのだが、精神に異常をきたす症例もあるのだと佐伯に説明した。
蜂の大量失踪を引き起こす現象は後に、蜂群崩壊症候群(CCD)と呼ばれるようになる。さまざまな要因があるのだが、殺虫剤は最も大きな原因と目されている。佐伯がセンセイに働きかけて、農薬メーカーに、もっと毒性の弱い農薬を造るよう圧力をかけるよう取り計らったことはいうまでもない。
電話で報告を聞いた村長が、そのことを、眼鏡の女子職員に伝えた。明菜は無表情だった。事務机の上で開かれている帳簿に、一匹の蜜蜂が飛んできた。
了




