03 紅之蘭 著 珈琲 『アラビアのロレンス』
トルコ珈琲は口づけの香りがすると、僕を可愛がってくれていた教授が口にしたことを、なぜだか、いまでも思い出す。
高校生のときはフランスに渡って、十字軍時代の城塞を片っ端から撮影したものだ。そして大学の卒論を書くために、英国・ロンドンの船着き場から、アラブゆきの船に乗った。
写真機をもった僕が、汽車を降りたところは、オアシス都市だった。当時はまだ、老いたりとはいえどもトルコ帝国が健在で、その施政下にあった。かつてはアッバース朝・サラセン帝国の都城であったところだ。
街をゆく女たちはヴェールをまとっていて、顔が見えず、美しいのだか、醜いのだか、さっぱり見当がつかない。陽射しは焼けつくようで、すぐに、コーヒーショップに逃げ込む。通りに面した入り口の喧噪とは裏腹に、裏庭は、椰子やらシュロに似た、観葉植物が、水路の畔に植え込まれているのがみえる。
こんな話を訊いたことがある。イスラム世界では、男は四人まで妻帯できる。金持ちは戒律にぎりぎり背かぬように、婚約者と契約して、結婚期間と離婚の時期、子供の養育に関する協議を行ってから結婚する。対して一般人は貧乏だ。一人の妻を娶るか、下手をすれば一生独身者となる。なかには、というか、結構な割合で、男色に走るというのだ。街では、ターバンの男たちが、小指と小指をつないで、歩く姿も珍しくない。
席に着いた僕の横に給仕の少年がやってきた。ナツメグをお茶請けに珈琲を注文する。珈琲色の肌をした痩せた少年なのだが、ドレスを着せたら、そのまま美少女として通用するだろう。
少年は悪戯っぽく笑った。まつ毛が長い。潤んだ白めに浮かんだ瞳は黒曜石のようで、やたらに輝いている。
「若旦那、色が白いんだね? とっても綺麗だよ。英国人?」
男の僕が、少年に綺麗だといわれても、大した感慨はない。それでも話を合わせる。
「よく判ったね。なんで分かったんだい?」
給仕は声を弾ませて、言葉を続けた。
「この街には、ドイツ人も住んでいる。あなたは、ちょっと雰囲気が違うんだ。こないだ英国探検隊がシリア砂漠を縦断して、この街にやってきた。隊長が女の人で、ローザン・ベルって名乗っていた。なんとなく雰囲気が、あなたに似ていた」
少年は僕の肩に手を回し耳打ちした。
「よかったら、今夜、僕んちへおいでよ。口移しで飲ませてやるよ」
「!」
男娼だったのか。僕は慌てて、その腕を払いのけ店をでた。刹那、店主が少年をどやす声がした。ふう、危ない危ない。イスラム世界では、おおっぴらに、アルコールをだすことは許されない。娼婦館・男娼窟への窓口は、酒場ではなく、珈琲ショップだ。
隊商のラクダの群れが、未舗装の路地を行き交っていた。バザールをちょっとぶらつき、店を変えて、改めて珈琲を注文する。
僕の名前はT.E.ロレンス。考古学者を夢見るオクスフォードの学生だ。第一世界大戦の少し前。僕は未来というものに、なんの疑いももっていない若者だった。
END