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今回の更新で最終話です。どうか。
最初に屋上に辿りついたのは火子だった。次に緋織、そして晃と清十郎が。続々と現れた四人に気付いた美衣はチラリと見やり、すぐ目線を戻した。
それに釣られて屋上の中央へ、四人は目を移す。そこには二匹の鬼が、互いに食い交わるように命を削り合っていた。
砂埃すら舞い上がる迅さで、二人は入れ替わり立ち代り、攻防を繰り広げる。
司は絶え間なく打撃を放ち、それを仁が捌く。捌く、が。
「俺のジャブより迅ェじゃんかよォ……!」
清十郎の言う通り、仁の腕に触れた司の拳はビデオの巻き戻しのように引っ込められ、別の空いた場所へ打ち込まれる。そしてそれも仁が受け流そうとするが、腕に触れるか触れないかの刹那、またも引き戻される。仁の”捌き”が何の役に立たない。防戦一方で仁には攻撃のチャンスがなかなか回って来ない。それどころか……。
(速くなってきてる……のか!? いや、その前に何で司がこんなに……!)
司の拳速に追いつかなくなってきた仁に、火子が檄を飛ばす。
「仁にぃ! 体が硬い、目が泳ぎすぎ、あと足! 足捌きが酷いっ! 何でそんなにガチガチになってるの!?」
その言葉を受けた仁が、ワタワタと顔をアチラコチラと動かし――そこに司の拳が突き刺さった。そして胸板を足裏で蹴り飛ばされ、何歩か後ずさる。
司と距離が開いた仁は、顔を赤く腫らして荒く息を吐き出す。普段の彼とは思えない疲労の蓄積。首筋や頬からは汗がダラダラと流れ、目は一点に定まることがない。
「……完全に仁は藤堂のことがトラウマになっているみたいだね。あんな彼……初めて見たな」
晃の言葉は仁の今の状態を如実に表わしていた。その通り、仁は自分の意思ではどうすることも出来ないほどに萎縮している。彼の心にはもはや消せないほどに深い傷跡が残されており、それが呪いのように彼を苦しめていた。
「何だ? そんなものなのか。何でも出来る”化け物”の炎燈寺仁はその程度の、格闘技も碌に習ったこともない俺のパンチも食らっちまう雑魚だったのか?」
「…………あのクソ餓鬼、粋がりやがって。私が代わりに――ってこら! 離しなさいなっ」
メリケンサックを取り出した緋織を晃と清十郎が二人掛りで押さえ込む。じたばたと暴れる隣で、火子が仁に話しかける。
「助けは必要、仁にぃ? 一人でちゃんと闘える?」
そう問われ、やっと笑顔を見せる余裕が出来た仁は、親指を立てて四人に微笑んで断言した。
「そこにお前らが居てくれる、それで俺には充分だ。だから、頼む。そこで俺を、見ていてくれ」
少し硬さが取れた仁が、再び司へ挑む。一足飛びで間合いを詰める仁からは、先ほどのような酷い緊張は見られない。
「フンッ」
踏み込みとともに、掌打を司の顔面へ。杭打ち機のように射出された一撃を、司は難なく身を屈めて避ける。
「ラァ!」
仁は太腿が自分の腹に当たるほど強く右脚を蹴り上げた。半円の弧を描く蹴りすら、司は身を揺らめかせて避けてしまう。しかし、仁は次々に連撃を繰り出す。
そのまま体を倒して独楽のように回転して蹴りを浴びせようとする/バックステップで。
体勢を立て直し、残像すら見える迅さで次々と放たれる両の拳/その隙間を縫うように。
重心を強引に移動させて後ろ回し蹴り/上体を反らして。
何一つ、司には届かない。先ほどと攻防が逆転しただけで、依然として仁は苦悶の表情を浮かべて司に相対している。美衣はその間、安堵と緊張がクルクルと廻るコインの裏表のように目まぐるしく入れ代わり続けていた。緋織と清十郎は驚嘆に満ちた顔で。火子は憎しみに染まった顔で、そして晃は何処か悲しそうに。
「――これは益々いけないね。藤堂が仁の動きに付いて来てる。当たる気配が全くしない。何だってここまで藤堂が強いんだ? これが……」
「「”主人公補正゛……!」」
晃の言葉尻に火子が同じ言葉を重ねた。彼女は胴着の裾を手が白くなるほど強く握り締めている。
「……先ほどもそうでした。あの兄に、火子の掌打も蹴撃も届きませんでした。ただ一発、顔を殴られただけなのに、火子は気を失っていました。たった、たったの一撃で……!」
火子の脳裏にその時の光景がありありと蘇ってきた。実の兄妹の対決は、あまりにあっけない決着で幕を閉じた。火子の、自らの魂を狂気に沈めた数多の攻撃を司は全て掻い潜り、ただ一度火子の顔を殴り抜けただけだった。それだけで火子の意識は麻酔でも打たれたように闇に堕ちた。それは抗うことの出来ない、”不条理”に従わせる、不思議な力を持ち併せたモノだった。
「オオオオオオオオオッ!!」
あの仁が雄叫びを上げて、司に疾風怒濤の攻撃を繰り出し続ける。しかし司にあっけなく避けられてしまい、全て空振りに終わってしまう。
「――仁、知ってるか? 俺がお前のことをどう思っていたか?」
歯を食いしばり、汗を散らす仁に司が話しかける。仁は司を捉えようと必死になっており、その問いに答える余裕が無い。そのことを察した司が、返事も聞かずに一方的に話を続ける。
「俺は、お前が羨ましかった。何でも出来て、何も怖がらないお前が。分かるか? 俺はいつもお前と比べられたんだぞ……!」
その言葉には僅かな怒気が。そして、その怒りをぶつけるように、仁の腹部に右の拳をめり込ませた。
「……ッ!?」
堪え、耐えた仁は何ともない様相で、自分の腹に突き刺さった司の腕を掴む。
「分かるか!? 俺の気持ちが!! お前は俺に無い物を全部持ってた、なのに、お前は! 俺から美衣すら”奪おう”ってのかッ!?」
司は余った左拳で仁の顔を殴りつける。
「司くん……」
美衣のその時の表情を何と言えば良いのだろうか。それは、年端もいかない子供がクレヨンで描き殴った絵の如く、何を写し出しているのか誰にも――それこそ本人にも――分からないものだった。
仁は美衣の呟きも受け止め、なおも歯を食い縛り、
「そんなこと…………知ったことかーッ!!」
吼え、司を殴る。互いに向かい合い、睨み合い、譲れない想いをぶつけ合う。
「少し本気を出せば何でも出来るお前と俺は違うんだ! 頑張って何が悪い! 必死になって何が悪いッ!? 俺が、俺が―――美衣ちゃんを好きになって何が悪いんだァァァァ!!」
ついに、仁は本人の目の前でその想いをぶちまけた。司はともかく、初めて仁の気持ちを知った美衣は驚きに目をみはり、頬を染める。
「人を好きになって、必死になるのが悪いなら人は何に夢中になればいい!? 人を想わないで人が生きられる訳が無いだろッ!! それを認めないで、せせら笑う奴がいたら俺が叩き伏せる! 邪魔する奴がいたら―――――バラすッ!!」
司の胸に前蹴りを放ち、強引に彼を引き離すと、仁は両腕を浅く広げ、指をあらん限り開いた。仁の身体が膨らみ、骨が軋むような音が仁の体から聞こえる。月明かりに背を向けて、顔を月影で隠す彼はまさしく”化け物”そのもの。その”化け物”は、最愛の人に自分の姿が見られたことが哀しいのか、それとも怨敵とまみえたことが嬉しいのか、もはや影そのものとなった顔に亀裂のような笑みを浮かべると、首を傾け関節を鳴らし――疾駆した。
物言わぬ影となった仁が司に飛び掛る。今までの一進一退の攻防から、仁の独壇場へと一変した。その圧倒的なまでの闘いを、五人は見守ることしか出来なかった。
荒れ狂う、黒い暴風が屋上に舞う。防御していた司はあっけなく、その黒の奔流に飲み込まれ、薙ぎ倒され、最初こそジリジリと後ずさる程度で済んでいたが、ついに堪え切れなくなり吹き飛ばされた。
人知を超えた速度で放たれる仁の打撃蹴撃は火子をもってしても把握することは適わず、司は強風に翻弄される紙切れのように、仁の四肢によって弄ばれる。
掌打が。拳が。手刀が。
前蹴りが。膝蹴りが。足刀が。
肘鉄が。一本拳が。頭突きが。
その暴力を行使する仁は歯を食いしばり、目を見開く。影に浮かぶギラギラと輝く双眸と横に割れた白い亀裂。ソレは加虐の愉悦に歪んだモノにも、大切なものを壊す哀しみに浸るモノにも。
その暴風は止まる事を知らず、司の身体がフェンスに叩きつけられて、なお一層烈しさを増す。
柔らかくしなり、司を受けとめたフェンスへ彼はそのまま凭れかかる。何度も反動で撥ね返り、仁に玩具の様に殴られ続けた司の顔に髪がしだれ、目元を隠した。しかし顎を伝う血までは隠し通すことが出来ず、確実に司にダメージが入っていることが分かった。
動かぬ司を月光が照らす。しかし、その月明かりを遮る巨大な影が一つ。見下ろし、聳え立つ”化け物"は血に濡れた右手で拳を作り、引き絞り―――
「ダメェェェェッ! 司くぅぅぅん!!」
美衣の悲鳴が屋上に鳴り響く。その声は司の耳にも届き、彼の心臓の鼓動を一際強く弾ませ、ノイズまみれだった頭の中を曇り一つない鮮明なモノに引き戻した。
仁は身を大げさに捻り、捩じり、司に背を向けて全身の力を天に突き出された螺旋を描く右腕に集める。その極端なまでに力を込めたアッパーは、【炎燈寺流、”槌蜘蛛”】。キリキリと引き絞られた仁の腕が、今にもはち切れそうだ。あとはもう、仁がトリガーを引くだけだ。
「―――さよなら、司」
別れを告げる言葉が、仁の引き鉄だった。開放された力は彼の意思どおり、弧を描き、地面の埃を蹴散らして司の顔――彼の拳なら首ごと引き千切ることが可能だろう――へ向かう。
もう少し、あと刹那の時間で司の顔を拳が突き刺さる。それより幾ばく早く、司の瞳に光が宿る。そう、これこそが―――”主人公補正”。
全ての事象を不条理に斬り捨てる、世界で一人の人物にだけ与えられる窮極の力。その力は、主人公が最も窮地にある時こそ、最も強く力を与える。そして、それが……今だった。
「―――――ッ!」
“化け物”すら上回る、それこそ”神速”と呼ばれる速度で司は動く。それはもはや、この場にいる誰にも知覚することは適わぬ――仁にすら、司の存在が世界に滲むようにしか見えなかった――ものであり、標的が自らの横軸をズラしたことで”槌蜘蛛”はあっけなく空振りに終わった。蜘蛛の牙は鉄のフェンスを飴細工のように噛み千切り、そのまま吹き飛ばした。
「炎燈寺くんっ!?」
何かを察知したのか、緋織が声を上げる。しかし、その声も虚しく。
仁は己の振り上げた腕が作った影の中、希望に目を輝かせる司を見た。そして―――
「―――”空蜂”……!」
右腕を上げた仁の腹部は当然、がら空きだ。そこに吸い込まれるように司の拳が叩き込まれる。そして水の包んだ袋を地面に落とす音にも似た、鈍い衝撃音が屋上を震わす。
「あれは、私の……!」と呟く火子。彼女の想像通り、司は火子が巴に”空蜂”を放つ瞬間を見ていたのだ。
彼には”見ただけ”で充分だった。血が滲むような訓練も、弛まぬ修練も、彼の”主人公補正”の前では路傍の石ころ程度の価値しか無い物に過ぎなかった。
「ごふッ!?」
あの仁が膝をついた。先ほどとはちょうど真逆、次は司が見下ろす形となる。
(何だ……!? 何が……起きているっ!?)
ついには両手も屋上のコンクリートにつく。その冷たさとは対照的に、仁の腹の中では熱を帯びた激痛が暴れ回っている。腹を掻き毟りたいという衝撃を必死に押さえ込むが我慢できず―――吐いた。
胃液は熱く、仁の食道を灼くようだった。臓腑に植え付けられた幼虫を吐き出すように嘔吐する仁は、合点が付いた。そして、いま自分がどれほど追い込まれているかも。
(司には……”可能”なのかっ! クソ、此処まできて、終わっちまうのか俺は!? 全部無駄なのか!? 俺みたいな”脳筋馬鹿野郎”じゃ……!!)
嘔吐のせいで零れた涙が、仁の頬を伝う。そこに――
「はぁ、はぁ……。仁、お終いだ。敗北を、噛み締めろ」
「ガァ……ッ!?」
司が這い蹲る仁の頭を踏みつけた。『自分の方が上だ』と相手の心に刻み付けるように。仁は己の吐瀉物に顔の半分を沈め、残された左目で司を睨みつけようとした。そして、彼は気付いた。いま、自分の身に起きている、生まれて初めての奇跡を。
―――――美衣ちゃんが、俺を見ている。
いつもは司しか見ていない彼女が仁を見つめ、口を開いた。あまりに遠く、か細い声だが仁にはハッキリと聴こえた。
―――頑張って、と。
瞬間、仁の身体に今まで感じたことのない力が沸き始めた。迸る力の奔流。その凄まじさに驚きながらも、仁は美衣が”自分だけを見てくれた”ことを心の底から、火山の噴火の如く歓喜した。
(初めて、初めてだ! 美衣ちゃんが初めて俺を見てくれた! 俺は、此処に在るぞッ!!)
一度消えかけた心の炎は、この世界のヒロインによって再び燈された。その火は竈で激しく燃える炭より赤く、夏の太陽より晃々と光り輝き始める。
「うおおおおおおおおおッ!!」
溢れる力を抑え切れなくなった仁が足に力を込め――爆発させた。
「な、お前……ッ!?」
司の足を乗せたまま、仁は司へ体当たりをかます。首の力だけでひっくり返された司は、バランスを崩す。ふらつく彼を見逃すわけも無く、仁は勢いそのまま、司にしがみ付き―――屋上から飛び降りた。
闇に身を投じた二人。姿を消した虚空を見た美衣は、闇を切り裂く悲鳴を上げる。
「いやぁぁぁぁぁっ!!」
三階から飛び降りた俺の耳に、美衣ちゃんの叫び声がこだまする。しかし、その悲痛な声とは裏腹に、俺の心は澄み切っている。
クルクルと、しがみ付いた司と堕ちていく。空に浮かぶ月は黒い天を青く照らし、雲すら跳ね除けて自分の存在を誇示している。猛スピードで堕ちて行っているのに、こんな下らないことが頭を掠めた。
「アアアアアアッ!?」
司が恐怖に顔を歪ませる。いつもはうざったく掛かっている前髪が、この時ばかりは風に流され、彼の素顔をさらけ出す。そこにはガキの頃から変わらない、何処か拗ねたような生意気な顔があった。
「いいか、司ァ! 俺から手を離すなよッ!?」
返事など聞くつもりはない。俺は司を片手で強く抱き寄せ、見る見るうちに近づいてくる地面を睨み、タイミングを計る。
幸い、下は花壇だ。上手くいけば怪我はしないだろう。失敗したら……司だけ重傷だろうが。
「ウオォォォォォォォッ!」
腹を括り、その瞬間に身を投じる。
風が頬を撫でる/まだ早い。
司が腕の中で踠く/まだ早い。
地平線が見えなくなった/まだ早い。
土の臭いが鼻腔を突く/今だ!!
腕と膝に全神経を集中させ、衝撃を―――打ち消す!
着地と言うよりかは不時着に近い形で、俺は花壇の土と墜落した。
腕のバネで司への衝撃を打ち消し、膝で自分への衝撃をやわらげる。他の地面に比べたら随分と柔らかい花壇の土は、衝撃で淡雪のように舞い、俺と司を包む。
腕の中の司は驚いてはいるが、顔に土が降り掛かると我を取り戻し、安堵の溜息を吐く。
「大丈夫か? 何処か怪我はしていないな?」
俺の問いに頷くと、すぐさまハッとした表情で俺に矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。
「じ、仁!? お前、何考えて……いやっ、あの高さから降りて何とも無いのか!?」
一度驚かせたおかげでかなり”らしさ”が戻ってきている。この司になら、俺の言葉も届くだろう。俺は深呼吸を一度、司の目を見つめて語りかける。
「俺は何とも無いぜ。これも今まで鍛えに鍛え続けた努力の賜物だ。……でもな、司。こんなに頑丈な身体を持っていても、学年で何度一位になっても、好きな人の笑顔を手に入れることが出来ないんだ。こんな俺が本当にお前は羨ましいのか?」
今しか、無いのだろう。美衣ちゃんにも伝えたいことは沢山ある。しかし、それと同じくらい司にも伝えなければいけないことがあるんだ。
「なぁ司。誰も彼もが”やれば出来る”訳じゃないんだ。”頑張れば出来るかも”っていう、今にも切れちまいそうな、細い蜘蛛の糸みたいな希望を信じてるだけなんだ。でも、お前は違うだろう? みんながみんな、お前みたいに恵まれてるわけじゃない。目を覚ませよ、お前がそんなだと、俺が―――心配なんだ」
俺の腕の中にいる司が、涙を滲ませる。何故、俺は司が涙を流したのかは分からない。分からないが、俺の想いが伝わったのだろう。そう、信じている。
――おーい!
上から、そんな声が聞こえてきた。俺が屋上を見上げると、そこには身を乗り出し、手を振る司、夏瀬くん、清十郎、火子、そして―――美衣ちゃんがいた。
彼らは俺たちの無事を確認すると、満面の笑みで口々に何かを叫び始めた。美衣ちゃんは俺、司と目線を動かし、最後は俺たち”二人”に対して笑顔を向けて、手を振り始めた。
「――さぁ、行くぜ? これから後片付けだ。俺たちはこの後、祝勝会をする予定なんでな」
「……お前は、だから”脳筋馬鹿野郎”なんだ。人の事に頭突っ込んで。馬鹿が……!」
悪態をつく司に肩を貸す、そうすると何故か司が俺にも肩を貸そうとする。どちらも引こうとしないため、これではただ単に肩を組んでいるだけだ。
「これで、いいのか?」
俺が訊ねると、
「これが、いいんだ」
と、司が笑みを浮かべて返す。俺たちはそのまま、二人で肩を組んで歩き出した。忘れてしまった、あの日のように、ただ肩を組んで暗い世界を歩いていった。