1-18
今回はここまでです。
―――ガチャリ。
不意の金属音に俺はフェンスから体を離して、身構えた。扉から現れるのは鬼か蛇か。
しかし、俺の予想を裏切り……いや、予想通りと言うべきなのか。俺の望んだ人物がひょこりと顔を出した。
「えーっと……仁くん、いるー?」
顔半分を扉に隠した彼女は――美衣ちゃんだった。彼女は俺をその可愛らしい両の目で俺を捉えると、胸を撫で下ろして扉を閉めて、俺の方へ寄ってくる。
「夜の学校って怖いね? アタシ、暗いのって怖いからもしも屋上に仁くんが居なかったら~なんて考えちゃって……あははっ」
彼女の話を聞きながら俺は、意識の半分で他のことを考えていた。
扉を閉めたということは彼女は一人なのか?
あの扉の向こうには誰かいないのか?
ここに誰かが邪魔してくるまでどのくらいの猶予があるのか?
たった今、晃、夏瀬くん、清十郎はどうしているのか?
他にも知りたいことが諸々、山のようにあったが、俺の親友が必死に作ってくれた時間を無駄にするわけにはいかない。美衣ちゃんと可能な限り話をしておかなければならない。
「――美衣ちゃん。何はともあれ約束を守ってくれてありがとう。今日、俺が話したいことって分かるか?」
俺の質問に彼女は真顔になって頷く。
「うん……。仁くん、何か私に言いたいことがあったんでしょ? ……あ! 皆は仁くんのこと勘違いしてるけど後でアタシがちゃんと紹介しておくからっ。皆、本当に良い人たちなんだよ!」
彼女は嬉しそうに自分の友を誇る。あぁそうだろう、俺も晃たちを誰かに自慢するときは誇らしげに胸を張って説明するだろう。そうであって然るべきなのに―――何故か俺の心には掻き毟られるような羨望と嫉妬が生じた。
(俺は何だってこんな汚い人間なんだ……! 長宗我部や一条たちに毛嫌いされるのも納得だっ)
彼らはもしかしたら俺の性根の”醜悪さ”に気付いていたのかもしれない。いや……自分の幼馴染の間を裂こうと考えている時点で”綺麗な”人間である訳が無いのだ。ただ、目を逸らしていただけなのかもしれない。
俺は、美衣ちゃんの清らかさの前に心が見透かされているような恥ずかしさを感じた。俺一人なら自己嫌悪に悩まされた挙句、うだうだと時間を浪費し、誰かに見つかって懲らしめられて退散、という惨めな結末になっていただろう。しかし、今だけは違う。今の俺は”約束”によってこの場所に縫い付けられている。何がなんでもやり遂げなければならない。
「実は、さ。俺は何時からか覚えてないけど、美衣ちゃんと司と一緒に居るのが辛かったんだ」
突然の俺の告白に、彼女は身を強張らせて話に耳を傾ける。
「何か同じ空間に居るはずなのに、俺だけ違う場所にいるような気がして。まるで透明人間――いや、違うな。そう、ちゃんと”一人の人間”として見られていないような不思議な感じだ、俺は”居ても居なくてもいい”のかなってさ」
俺の言葉一つ一つに美衣ちゃんが傷つけられているのが手に取るように分かる。本当はこんな話はしたくない。だけど、駄目なんだ。俺には今しかない。今夜を逃したらきっと果てもなく逃げ続ける。いつまでも、それこそ……死ぬまで。
「美衣ちゃんが言ってただろ? 俺は他の友達と一緒に居るほうが楽しそうだって。……その通りだったんだ。俺は、あの三人とか火子と一緒に居ると、"一人の人間”として扱ってくれるし、必要としてくれる。それが凄く嬉しかったんだ。火子はともかく、他の人間に頼りにされるなんて今まで殆ど無かった。何よりも――」
歯を噛み締める。そうしないと、溢れてしまいそうだったから。
「―――こんな俺に「頼ってくれ」って言ってくれたんだぜ? こんな俺にだ。この世界に”居ても居なくてもいい”はずだった俺が、やっと認められたような気がしたんだ!」
“振り向かせる”ことのみを考え、高校に入って諦めて、半ば眠ったような意識で生きていた日常を壊したのは、自分の力や神の奇跡でも無かった。何てことない”友人”だった。救われたのは、俺だったんだ。
「目が覚めてやっと分かったんだよ! 何かを我慢して”仲の良いトモダチごっこ”なんて、ゆっくりと効いてくる”毒”みたいなモノで、そんなモノに何時までも寄り掛かってちゃいけないんだって! 俺はこの歳になって、やっと分かったんだっ!」
俺が言いたいことを察したのか、泣き出しそうに俯いていた状態からハッと何かに気付いたように顔を上げた。
「だから、俺は―――」
扉が蹴り飛ばされ、金属とコンクリートがぶつかり合う喧しい音を立てる。
影からゆらりと現れた者は、そのまま月明かりを背に浴びて、顔を月影で隠している。その様子はまさに幽鬼。ゆっくりと、ゆっくりと俺と美衣ちゃんに近づいてくる。
やがて、月明かりにさらされた顔は俺たちを憤怒に染められていた。ソイツがそんな顔をするのは珍しい。俺は―――
「おい、アレって……マジかよッ!?」
三階に着いた三人は目の前に広がっている光景に目を疑った。
まずは飛び散った血と壁に付いた無数の刀傷。その跡を辿るように先へ進むと、倒れ伏した二人の姿が。一人は巴。もう一人は―――火子だった。
「だ、大丈夫ですの!? 火子さん、しっかり!!」
巴は特に目立った傷などが見当たらず、端から見たらただ眠っているだけに見える。しかし、その巴から少し離れた所にうつぶせに倒れている火子は見るに耐えない酷い姿だった。
体中到るところに刀傷がつき、服はバラバラ。元は白絹のように美しかった肌は赤く、一部では薄桃色と黄色に近い白をさらけ出している。その傷口から流れ出た血が海を作り、彼女の体を無慈悲に受け止めていた。それを目の当たりにした緋織は、厭な死の臭いを感じ取り、我を忘れて火子に走り寄った。
「ほらっ! 起きなさいな火子さん!! 変な冗談はやめて、ね。起きなさいって!!」
緋織に抱き起こされたことは火子は、ウンともスンとも言わず、目を閉じている。
「晃! おい!!」
「分かっている! いま救急車を呼ぶっ! 僕らがどうこう出来るレベルの話じゃないだろうッ!?」
携帯電話を取り出した晃は焦った様子で119へ連絡をしようとする。
「おいコラァ!! 妹さんが死んだら大将が悲しむぞッ! テメェ目ェ開けろよォォ!!」
「火子さん、何してるんですか!? あなたは私のライバルなんでしょうっ!? その恋敵が死んだら勝ちも負けも決められませんのよ!! そんな決着は私が……!」
晃は携帯電話のキーを押し、清十郎は叫び、緋織は声を震わせる。そして火子は、
―――パチリ、と目を開けた
その、余りに普通の目覚め方だったため、一同はポカンと間抜けのように口を開けた。
「うぅ……。まさか兄に遅れを取るとは思いませんでした。――あれ? 皆さんどうしたんですか? って会長の目! 目が潰れてるじゃないですか!?」
自分の腕の中で驚いている火子を見た緋織は、安堵のあまり、思わず抱き締めてしまった。
「良かった……! 火子さん、良かった……!」
涙を流して喜ぶ緋織に火子が戸惑っていると、
「君はね、今さっきまで死んだと思われていたんだよ、火子さん。僕なんかほら、もう少しで救急車を呼ぶところだったよ」
晃が携帯電話を見せびらかして、説明した。その横では清十郎が目頭を指で押さえておいおいと泣いていた。
「あぁ、成程……。会長、大丈夫ですよ。血は止まってますし、もう動けますし。ね、火子が死ぬわけないじゃないですか」
ついには火子は泣いている緋織の頭をあやすように撫で始めた。それに対して緋織は「分かっていますわ……」と何度も何度も繰り返していた。
「いやいやいや、血がそう簡単に止まるわけがないだろう? ほら、ここに包帯があるから――」
ポケットから取り出された真っ白な包帯を、晃が火子に渡そうとする。しかし、彼女は首を横に振って断る。
晃は怪訝そうに彼女を見つめ、次に自分の包帯が汚れているのでは、と確認を始める。それに火子は焦ったように説明し始めた。
「あ、いえ、本当に大丈夫なんです。火子は小さい頃から怪我が他の人より治るのが早いんです。まぁ簡単に言うと……”主人公補正”なんですけど、ね」
火子は悲しそうにそう言うと、自分の右腕の千切れかけた制服を剥ぎ取った。露になった肌は確かに赤く汚れているが、傷口には既に瘡蓋が出来て傷を塞いでいる。そうして合点がいった様に晃が頷いた。
「そうか、君は藤堂の妹だったね。”主人公補正゛を受け継いでいても不思議じゃないね。その上、仁の手ほどきまで受けているなんて、まさしく”助っ人”だね」
その言葉に思い出したように火子が大慌てで立ち上がる。無論、一緒に緋織のことも立たせる。
「そうです! 兄がもう此処を通って屋上へ行ってしまいましたっ! 火子の精進が足らなかったばっかりに……申し訳ありません!!」
思い切り、頭を下げられ、三人は顔を見合わせ、肩を竦め、笑った。
「なに、僕らでも藤堂を止めることなど出来ないさ。むしろ、一条を倒した上で戦ったんだ。よく無事だったと褒めたいぐらいだね」
「そうだぜェー? 俺らなンて二人掛りで一人が精一杯だッてのに……妹さんッ! アンタは偉い!!」
「そうですわ! あなたはよく頑張りました! ほらっ、竈門くん、上着を貸してあげなさいなっ!!」
「皆さん……」
緋織が清十郎の胴着を無理やり剥ぎ取り、火子の肩に掛けた。そして清十郎は寂しそうに晃を見やり、溜息を吐いて晃は彼に自分の上着を貸し与えた。
「……じゃあ、もういいかい? 早く屋上へ行こう。仁は藤堂に勝てない。僕らが彼をサポートしてあげないと」
晃の言葉に緋織と火子は頷き、屋上への階段を昇り始めた。次いで晃が清十郎を伴って昇っていく。しかし四人はこの時は知る由もなかった。変わるはずがなかった、絶対的な”主人公補正”を少しずつ塗り替える力がこの世界に現れ始めていることに。それは、水面に何度も石を投げ込んで水月を揺らすように、幾重にも拡がった波紋によって引き起こされたものだった。
「司、か。遅かったな。そろそろ横槍入れてくる頃かな、と思ったら本当に来るとはな。全く、空気を読んであと1、2分遅れて来いよ」
何で俺はこんなに落ち着いていられるんだろうか。司には適わないはずだ。どうせボコボコにされて、訳も分からないうちに美衣ちゃんが司に笑顔で抱きつくという”ご都合主義”的な展開になるのは目に見えている。なのに、どうして俺はこんな冷静でいられる。
「……美衣、司に何かされなかったか? 大丈夫か?」
俺の話など全く無視。しかもまるで俺が美衣ちゃんに手を出そうとしていたような言い分だ。少し、悲しい。
「司くん! あのね、仁くんはね!!」
美衣ちゃんが何かを司に伝えようとする。しかし、歩み寄ってきた司に掌を突き出され、話すのを止めてしまった。
「――全部、後で聞く。仁、分かってるだろ?」
ギラリと、獣のような目をした司が美衣ちゃんの前に立ちはだかる。誰にも”俺のモノ”を渡さないぞ、と。獣のような牙を剝いて俺を睨んでいる。
司は汗をたらし、今にも飛び掛らんと身を屈めている。シャツには誰のものか分からないが返り血が点々と付いているが、司自身には特に何処も負傷していないようだ。それは、俺にも言えることだ。
不安そうな美衣ちゃんの顔を見て、俺は不思議な喪失感を覚えた。そんな気はしていた。司が来たらそうするしか無いことは分かっていた。美衣ちゃんには見せたくなかったが―――やるしかない。
俺はネクタイを緩めながら司に訊ねる。
「お前とこんな風に”喧嘩”するのは幼稚園以来だな。あの時は俺が負けたが……今回は違うぜ?」
しゅるり、と解いたネクタイを放り捨てる。第一ボタンも外して首を左右に揺すって具合を確かめる。
「もういい、お前は黙れ。お前を殺して美衣を”取り戻して”帰る」
司はそう断言すると足に力を込め、拳を作り、俺を睨みつけた。
「そういうのは”覚悟”が無くちゃ言っちゃ駄目なんだぜ?」
その言葉を挑発と取ったのか、司がこちらへ雄叫びを上げて走り始めた。
「うおおおおおおおお! 仁ーッ!!」
「ふん、喧しいことだぜ……!」
腰を落とし、俺に向かってくる司を待ち構え、ついに―――激突した。
もう少しで完結です。可能な限り近いうちに完成させます。