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それから高校では”普通の生徒”として生活し始めた。ボクシング部に入り、炎燈寺とたまに顔を合わせると挨拶をする、といった平凡な日常。その何気なく繰り返される日常が、俺にとっては酷く退屈で、充実したものであった。
しかし、ある日事件が起きた。俺の入っていたボクシング部の部室で吸殻が見つかり、喫煙者がいると疑われる事件が。無論、俺ではない。高校に入って、ボクシングにのめり込んだ俺は随分マトモになったし、何より俺は煙草は呑まないからだ。
しかし、俺が真っ先に疑われた。以前の俺を知っている人間が何人もいたし、その上その中には俺がボコにした奴もいた。そんな事情もあってだろうか、”疑わしきは罰せず”なんて言葉が嘘のように、あっという間に俺は”退部”という処分を受けた。
部員の連中に問い詰めたが、「吸っていない」の一点張り。それはそうだ、逆の立場なら俺だってそうする。疑われるのは仕方が無い、蔑まれるのも仕方が無い。しかし、一方的に烙印を捺されるのは納得いかない。俺は何もしていないのだから。
教師がゴミを見るような目で俺に退部を言い渡した。抗議をしたが飛び回る蝿を追い払うように面倒くさがって相手にしてくれない。何度も理由を訊ねて、やっとその口から飛び出た言葉は「普段の行いが悪いからこうなるんだ。反省しろ」という、何の答えにもならない下らない定型句だった。その言葉に俺の頭が沸騰してしまい、思わず――殴った。
それからの展開は早かった。その行為で俺が煙草を吸ったという事が既成事実化し、俺はあっという間に停学まで食らってしまった。けんもほろろ、俺の言葉も意思も関係なく。
八方塞、だ。本当にどうすることも出来ない。どう足掻いても屑は屑なのか、俺は変われないのか、そんな言葉が無力感とともに押し寄せた。俺はふらふらと無意識のうちに、路地裏のようなジメジメした場所――校舎裏にまで来ていた。
授業中のためか、誰もいない。そもそもこんなところに好き好んで来る奴がいる訳が無い。校舎の隙間から差す陽光を浴びながら、俺はそこに腰掛けて空を見上げた。呆れるほど静かで穏やかな空間で、俺は泣いた。
鼻水を垂らし、嗚咽を上げながら俺は子供のように咽び泣いた。そこに誰かが現われた。
俺の歪んだ視界が捉えたのは、丸太のように立派な両足と、ゆらゆら揺らめく赤いネクタイだった。俺が顔を上げるとそこには涙をはらはら流す炎燈寺がいた。
彼は俺の両肩を力強く掴み、岩から滲みだす清水が如く涙を流しながらこう言った。
「――お前の努力は無駄にしない。必ず、必ずどうにかしてみせる」
そんなこと出来る訳が無いのに、異様な説得力を感じさせる言葉で俺を安心させようとする。
「大丈夫だ、お前は吸っていないんだろう? ……よし、なら大丈夫だ。どうにかなるぜ」
無様に首を振る俺に満足そうな笑みを浮かべた彼は、早速立ち上がり、何処かへ駆けていった。
その後、俺の退部はあっさりと取り消された。教師を殴ったことはどうしようもなく、停学まではどうすることは出来なかったが、それでも俺の疑いは晴れた。聞いたところによると煙草を吸った真犯人が名乗り出て、自らの罪を認めたそうだ。
その犯人とはボクシング部の部室から、二軒離れた場所に部室を持つ柔道部の人間だった。ソイツは頭から血を流した状態で職員室にやって来て、泣きながら自分の犯行を認めたらしい。
どうやらソイツは以前までは柔道部の部室で吸っていたのだが、それが部員にバレて注意されたため、俺たちの部室にまで忍び込んで吸っていたらしい。実際に彼が吸っている現場を今までに何人もの人が見たことがあるというのも重要な証拠となった。
こうも簡単に決定が覆るものなのか。俺は半ば呆れて自分の周囲の変化を眺めていた。恐らく、炎燈寺の尽力があってこそだろう。
俺は”炎燈寺”という存在に何度も助けられている。恩は返すべきだ、そのぐらい汚れた犬だった俺にも分かる。今こうして真っ当な生活を楽しんでいられるのは彼のお陰だ。俺の親父が良く言っていた、”担ぐ相手は慎重に決めるべきだ”と。ならば俺が担ぐ人間は――
夜、またいつかの日のように神社で俺は待っていた。あの日と違う点を挙げるとしたら、俺が境内で正座をしていたという事だ。
いつものようにやって来た炎燈寺は、畏まった俺を見て驚いていた。と、言うかあからさまに心配するような顔で「ど、どうした!?」と訊ねてきた。俺は顔を引き締め、宣言した。
「炎燈寺ィ! 今これから俺はアンタを”大将”って呼ばせてもらうぜッ!! 今日からアンタが俺の大将だ! 炎燈寺の大将ッ!!」
最初は呆れ、顔を顰め、腕を組んで悩み始めた大将は、起きていることが良く理解できないようだ。俺はもう一度声高らかに宣言する。
「炎燈寺の大しょ――」
「分かった! 分かったから夜に大きな声を出さないでくれっ! 全く、この前の緋織くんの次はお前か、竈門」
焦ったように俺の言葉を遮り、痛む頭を抑える様に頭を擦る大将。
「竈門じゃねェ! 今日からは清十郎って呼んでくれ大将ッ! 俺と大将の仲じゃねェか。なァ大将!!」
「……お前、”大将”って言いたいだけじゃないのか?」
「酷いぜ大将ッ! 心を込めて”大将”って呼んでるぜ大将!!」
「一生分の”大将”を聞いたような気がするぜ……。しかし、何でだ? この前のことなら気にするなよ、アレは俺が助けたいから助けただけだしな」
疲れたようにベンチに腰掛ける大将は肩を竦めた。俺は膝を地面に付けたままで這い寄り、いつもは早口気味の口調を意識してゆっくりとした物に変える。
「――何で俺を助けてくれたんだ? 俺みたいな屑、助けても何の意味も無ェじゃねえか」
それに対し、恥ずかしそうにしながらも大将は答えてくれた。
「馬鹿みたいに突っ走ってるお前が気に入ったからだ。頑張ってるお前が好きだったから、それだけだぜ。必死にボクシングに打ち込んでる姿を偶に見掛けて、勝手な話だが『あぁ、あの時説教しておいて良かったな』なんて思えたんだ。それをぶち壊そうとするような奴がいたから力を貸した……まるで俺まで否定されてるような気がしてな」
何故かその言葉に目頭が熱くなった。恐らくそれは”頑張っている”ということが認められたことによる感動だったのだろう。思わず、大将に抱きついてしまった。
「大将ーッ! 俺は一生アンタについて行くぜッ!! なァいいだろうッ!?」
「あぁもう分かった! 分かったから泣かんでくれっ! ほら、これで涙を拭け、な?」
背中をポンポンと叩かれてハンカチを渡された。この人は俺を認めてくれた、この人に着いていけば俺は大丈夫だ。俺は大将の為なら命を張れるだろう。例えそれが……。
長宗我部は音の正体に薄々だが気付いていた。これは――大型自動二輪車。それが地響きを立てながら恐らくこちらへ向かっている。
「ふむ、確かに当たればお終いだろうな。当たれば、な……」
結局こんな下らない手か、と長宗我部は溜息をついた。いくら狭い廊下の上を走ろうとも避けようはいくらでもあるし、そもそも自分自身がここに何時までもいるとは限らない。
「穴だらけにも程がある。本当に成功すると思っているのか煙崎は」
この闘いにも終わりが見えたことに長宗我部は何処か寂しさすら感じていた。自分の力を存分に発揮できた事は純粋に喜ばしく、その闘いがこんな結末になるとはあっけなさ過ぎる、と。
ついに、轟音と地響きを従えて、その主が廊下の曲がり角を車体全体が擦れるような角度に傾けながら強引に曲がってきた。
闇夜に紛れて現われたそれは、自身が発する迫力とは対照的にポップなアニメキャラのカッティングが全身になされていた。そのカッティングの色鮮やかさは黒い車体に斑な模様を作り、まるで密林の毒蜘蛛を想起させるものであった。
その毒蜘蛛は三つの赤く光る複眼で長宗我部を捉えると、なお一層大きな雄叫びを上げるように唸りを高めた。そしてさらに加速。ビリビリと廊下の窓を砕くように揺らしながら蜘蛛は這い寄る。
長宗我部がそろそろ教室なり何なりに逃げ込もうと思ったその時だった。
――ゆらり。
何かが長宗我部の後ろで影のように立ち上がった。それに気付いた彼が急いで振り返ろうとした時には既にしがみ付かれ、身動きが取れなくなっていた。
(そんな馬鹿な!? 動けるはずが無い!! 何でコイツは立ち上がれるっ!?)
首をどうにか捻り、後ろを振り返った。そこには――
「ヘ、ヘ……。テメェだけ寝てちゃ世話無ェぜ……。なァ、大将?」
――頬を吊り上げて笑う清十郎がいた。彼は土気色の顔で、身体をがくがくと震わせ、半ば寄りかかるように長宗我部を捕らえていた。
動きを封じられ、その上目前には巨大な鉄塊が高速で迫ってきている。この時になって長宗我部は初めて焦りを見せた。
「は、放せっ! ここまでする必要が何処にある!? お前まで巻き込まれるぞっ!?」
声を荒げ、肘で何度も清十郎の頭を打ちつける。それでも清十郎は揺るがない。ソレばかりか、腰に回した腕にさらに力を込めた。
「俺ァよ……約束したんだよ。晃に”絶対倒れない”ッてな。それによォ……」
いつもの彼のように歯を剥き出しにして笑った。
「ダチの為なら命の一つや二つ、くれてやってもイイじゃねェかよォォォォォッ!!」
ついには大口を開けて笑い始めた清十郎を、長宗我部は怯えとともに見つめ、遮二無二逃れようとする。
「ふ、ふざけるなぁ!! 俺は、俺はそんな……!」
「ヒャーヒャヒャヒャッ!! 覚悟決めろォ! みっともねェぞコラァ!!」
踠き、逃れようとした長宗我部だが、彼は晃の複眼の向こうに赤黒い殺気を視たのを最後、身体の関節全てが弾け飛ぶような衝撃と奇妙な浮遊感を感じながら気を失った。
ドンッ、と思っていたより軽い衝撃が車体越しに伝わり、「現実感が無いな」などと晃は何処か暢気に考えていた。
彼の網膜に焼き付いているのは、焦りと恐怖に顔を引き攣らせる長宗我部と、最後の最後まで馬鹿笑いしていた清十郎の酷く対照的な表情だった。二人は単車と衝突した後、左右に分かれる様に弾き飛ばされ、廊下や壁に身体を叩きつけられていた。
晃は二人を轢いた後、単車を横倒しにするようにして強引にブレーキを掛ける。ギュラギュラと喧しい音をあげ、廊下に絡みつく二匹の蛇のようなブレーキ痕を残して、やっと唸りを上げるのを止めた。
晃は転がるように単車から飛び下りて、駆け出した。暗視スコープをかなぐり捨て、廊下の闇の向こう、横たわる二人の下へ走る。
「清十郎! 大丈夫か!?」
仰向けで倒れている清十郎は晃の声を聞いて、ゆっくりと瞼を開く。そして弱弱しい笑みを浮かべ、
「ヘヘ……痛ェな。身体が動きャしねー。晃、悪ィが肩貸してくンねぇか? 早ェとこ、会長ン助けに行こうゼ」
語勢こそ本調子では無いようだが、意識がはっきりしているのを確認して、晃は一安心といったように胸を撫で下ろした。
「あぁ良かったよ。僕はてっきり死んだのかと思ったからね。ほら、掴まれ……っと!」
「痛ェ! も、もっと優しく……!」
「我慢しろ、男の子だろう? えーい! 半べそをかくんじゃないっ」
ひぃひぃ涙を滲ませる清十郎を、晃が叱責してどうにか立たせる。そして、どうにか清十郎が全体重を預けるような形で立ち上がり、不恰好ではあるが歩み始めた。
「肩が痛ェよォ……。膝もギシギシ言いやがるゥ……」
清十郎がブツブツと愚痴を漏らしていると、
「――おい、俺の心配はしていかないのか?」
二人は驚いたように声の方を見やると、そこには意識を取り戻して横たわったまま天井をぼんやりと眺めている長宗我部がいた。
「テ、テメェ……。どんだけタフなんだよ……」
呆れた清十郎の声に、愉快そうに長宗我部は笑いとともに受け止める。
「ハハハ、流石にもう動けん。身体が痺れているし、アバラも折れてるしな。おっと、骨を折ったのは竈門の拳打だ。お前は強い、それを誇れ。俺を倒した人間として、な」
そして、一際大きく息を吸い込み――
「―――俺の負けだ。認めよう。この闘いにおいて、俺が出来ることは何もない」
苦々しげに、己の敗北を潔く認めた。その言葉に清十郎は満足げに頷き、
「晃、どォする? 取り合えず息の根止めておくか?」
「お、おい! 何がどうなったらそうなるんだ!? ここはお互いに健闘を讃える場面だろうっ!?」
長宗我部の驚きとは関係無しに、二人はお互いに顔を合わせてアレコレ考えを廻らす。
「僕はそういった体育会系のアレは分からないし……清十郎、どう思う?」
「健闘ッたって、こちとら矢やらバイクやら使ってるしなァ。そもそもタイマンじゃ無ェし」
「うん。じゃあ何だ、ここは最後まで”卑怯者”で通すべきかね?」
「まァそっちのほうが筋は通ってるわナ。最後だけ格好良くなンてお天道様が許しゃし無ェだろうしヨ」
「じゃあ話は纏まったね。えーっと――いいかな、長宗我部?」
晃が困ったような顔で仰向けの長宗我部へと近づいていく。無論、清十郎も引っ張られるように身体を引きずって連れられて来る。
「な、なんだ? お前らまさか……」
怯える長宗我部には、歩み寄る二人が地獄の羅卒のように見えていた。目を輝かせ、どんな慈悲の声にも耳を貸さない閻魔の使い。じりじりと近づいてくる二人の姿を恐怖に染まった両の目で見つめている。
「締めだけ人格者のように振舞うなんて虫が良すぎるだろ。……それに僕ら日陰者が、皆に愛されるスーパーマンに完全勝利するなんて最高じゃないか? さぁ、長宗我部。君も最後の最後まで君の役目である"主人公の頼れる悪友”役を貫いてくれ。それが――流儀ってやつだ」
晃は長宗我部の返事を聞くより早く、彼の顔面をあらん限りの力で踏みつけた。身動きの取れなかった長宗我部は当然、顔面を踏み拉かれる。晃が足を退かすと、ネチャ……と粘っこい血が糸を引いた。
最後のダメ押しで完全に長宗我部は気を失った。その様子にやっと納得したように晃は頷く。
「……さぁ、これで筋は通したな。じゃあ夏瀬さんのところへ急ごう。予定より随分とかかってしまったからね」
「アァ、とっとと会長の手伝いに行くゼッ! ……まァ俺らの今の全速力はガキより遅ェがな」
そうして二人は二人三脚のように身体を左右に揺らしながら二階へと向かう。まだ決着がついていないことを祈り、叶うなら勝利していてくれることを望みながら。
恐らく、今後の掲載速度が若干遅れます。申し訳ありません。