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火子は巴の斬撃を躱す。しかし、その動きは先ほどのように紙一重な危険なものではなく、どこか余裕を感じさせるものとなっていた。
(分かった! この人の剣術の基礎!)
この時間で火子は巴の技を見切り始めていた。それは彼女に宿っている”鬼”が在ってこそ為せる技か、それとも彼女自身の才能によるものか、それは分からないが――
「――どうやら、もう気付かれてしまったようですね」
巴もそのことを感づいていた。自分の攻撃は恐らく、どれ程振るおうが届かないということに。
またも巴は距離を取る。しかし先ほどとは対照的に、火子はにやにや笑い、巴は汗を拭っている。
「火子さん、お聞かせ願います。私の剣術はどのようなものだとお考えですか?」
構えは解かず、問う。火子は「んっふっふー? 聞きたい? ねぇ、聞きたいっ?」と前置きしたあと答えた。
「んーとぉ、いっぱいある攻撃の殆どはダミーでぇ、本命は急所への一撃。それをカモフラージュするためにとにかく剣を振るっていう芋くさい剣術って感じー?」
火子の言葉を聞いた巴は、潔くそのことを認めた。
「そうです。我が一条家に伝わる剣術は”木を森に隠す”と申しましょうか。とにかく、無粋な剣術です。本命を隠すためにとにかく鋭い斬撃を繰り返す――要は相手の防御の仕損じを狙うというものです。さすがは藤堂さんの妹、素晴らしい洞察眼です」
「まーこれでも”主人公補正”は多少なりとも受け継いじゃってるしねー。……不純物だから取り除きたいけど自分じゃどうしようもないしぃ」
火子は自分にも兄と同じく”主人公補正”があることを薄々だが気付いていた。はっきりと知ったのは仁からその存在と名前を聞いたときだが、小さな頃からその自分の中にある”何か”は知っていた。
司のものとは違い、それほど強力なものではなく、司のソレと較べれば微笑ましいものであったが、火子はこの存在を激しく嫌悪していた。勉強はそれほどしなくても漠然と理解できてしまう。したことがないスポーツでも何となくこなせてしまう。他人が聞いたら「羨ましい」と恨まれるかもしれないが、火子はこれを”呪い”のように忌み嫌っていた。
理由は簡単だ。”努力が否定されているように感じる”、これだけだ。必死に勉学に血道を上げている人間よりも、火子がほんの少し頑張れば良い成績が取れる。命を賭けて部活に打ち込んでいた人間よりも、少しコツを学んだ火子のほうが上手くなる。火子にそうして追い抜かれた人たちは一様に泣きながら同じ言葉を漏らした。
『どうして……』と。
唯一良かったことなど、常人ではついていく事など不可能と思える”炎燈寺流”をどうにか学ぶことが出来るというそれだけだった。
火子は苦しんだ。端から見たら贅沢な悩みだろう、”努力を少しでもしたら人並み以上にこなせてしまう”などという悩みは。
ならばどうすべきか。”実の兄”のように怠惰に都合よく生きろというのか。そのような、豚のような生き方など火子には許せなかった。そして火子は、この世界でもっとも信頼を寄せている人物に相談することにした。
不安と良心の呵責に押しつぶされそうな火子を前に、その人は豪快に笑って言った。
『火子、それはしょうがないことだぜ。誰かが笑えば誰かが泣く。どんなことにだって”席”の数ってのは決まってる。それを奪い合えば泣く奴ぐらい出てくるさ』
でも、みんな私より頑張ってるのにそれを邪魔しちゃ……。
『じゃあ火子は永遠と誰かに席を譲り続けるのか? 誰かがその席に座って幸せそうにしているのを「私は人一倍優れているので……」って言い訳して一生指を咥えているのか?』
そんなのは厭っ!
『だろう? なに、そりゃ妬まれたり恨まれることぐらいあるだろう。それでも不正が無いなら、自分に正義があると確信できるなら堂々としていればいいんだ』
で、でも……。
『頑張ることが悪いことな訳無いぜ! むしろ手を抜いたりする方が失礼だ。――なぁに、それでも火子のこと悪く言う奴がいたら俺が守ってやる!』
本当? ずっと?
『あぁずっと、永遠にだ! いつまでも俺は火子の味方でいてやるぜっ! それが”お兄ちゃん”ってやつだ!!』
……お兄ちゃんってのは蛇足かなぁ。
『え? な、なんで? え、ちょ……!』
それ以来、多少だが自己嫌悪を和らいだ。これも自分の一部だと、少し人と変わった欠点だと思って付き合っていくことにした。どうしたって消すことが出来ないのだから。
きっと、ソレがどんなに沢山の人を泣かせてしまうこととなってしまっても、私の頑張っている姿こそあの人が一番好きな姿だろう。そう思うと火子は、迷うことなく前へ進めるような気がした。
「――ま、これも火子の個性だと思って付き合っていくしかないよね! じゃあどする? 諦めて帰って境内で箒でも掃いてる?」
「本当はそうしたい所ですが、私にもそれなりに背負っているものがありますので。それにまだ私の剣術の真髄、お見せしておりませんので」
巴はニコリと笑うと、刀を己の牙のように交差させていま一度、水面に潜る川蝉か如く飛んだ。
瞬き一つで火子の下まで寄る巴。その迅さは最早、瞬間移動のようにも思える。
「はぁッ!」
気合一閃、巴の放った斬撃は無数。腕が影のように不確かなものへと変化したと思った時には、火子は己の身体が切り刻まれていることに気付いた。舞い飛ぶ血と布――それはまるで華が舞い散るかのように。
(迅い! けど……)
目の慣れたはずの火子でも視認出来ないほど迅さだ。しかし、巴の斬撃による致命傷は一つもなく、ただ身体が薄く切り刻まれただけという事が彼女には疑問だった。
(これじゃ決定打が無いけど……)
確かに何度もこれを喰らい続けたらアウトだが次でカウンターで仕留められる、と火子は確信した。
「では、もう一度」
巴はそう言うとまた地に潜るように走り寄り――
「たぁッ!!」
無数の斬撃が舞った。火子はその剣林の中でも目を見開き、一撃必殺の攻撃を加えようとしたが――
濃縮された時間の中、まるで水中に居るのような印象すら受ける世界で火子は見た。その時間を歪ませるように、水の詰まった風船に差し込まれた鉛筆かのように、ゆっくりと火子に迫る剣先があることを。
その刃は全てが緩慢に動かざるを得ない世界で、一定の速度で火子の腹部に迫る。他の刃がこの世界の法則に従っているにも関わらず、だ。その恐怖すら覚える緩やかな動きは、火子にとっては”死”そのものに思えた。
避けたい、避けようと思うが、この世界では即座にそれを実行することは適わない。火子は必死に動こうとしたが、時既に遅し。ゾブリ、と厭な音を起てて刃は火子の腹部にゆっくりと、あくまでゆっくりと突き刺さった。
――瞬間、世界が元の速度に戻る。火子は必死に下がる。そして下腹部に熱を感じたと思うと、
「……ッ!」
零れた。今までの血とは決定的に違う、命が宿った血が、だ。火子はたった今自分が見た光景が信じられなかった。あの”死”を体現したような刃は何だったのか、と。
「よく、それで済みましたね。私はもう少し奥まで差し込んで捻ったものと思っていましたが……。あの迅さでは私自身も殆ど無意識ですから仕方ありませんね」
火子はやっと合点がいった。あの攻撃は意識すら入り込めないような超高々速の迅さを持った斬撃なのだと。むしろ、それを視認し、避けようとした自分が異常、例外な存在なのであると理解した。
(あの無節操な攻撃は”階段”みたいなもので、ただ己を”高める”だけのもの……! 時間を歪ませるような速度からの一撃が本命ってわけね)
「……火子さん。どうやら気付かれたようですが無駄です。この”非時”を躱すことは何人たりとも出来ません。どうか、御覚悟を……!」
またしても這い寄る巴に対し、火子は必死に打開策を練っていた。
速いだけなら躱せる。
数が多いだけならいなせる。
力だけなら捌ける。
しかし、この”非時”はどれでもない。迅さすら越えた、彼岸に踏み込んだ技だ。火子は思わず、とある人物の名を叫びだしそうになったが、唇を強く噛み締め、耐えた。
(必ず何か、何か糸口が……!)
悲鳴にも似た思考は、豪雨のような斬撃にかき消された。火子は目を閉じない。両手を前に交差させ、顔をガードしてどうにか視界を確保する。
幾度も幾度も切っ先が顔を掠めていく。火子は目まぐるしく目を動かし、突破口を探し続ける。
そして、胸の鼓動が一度だけ一際強く鳴ると、またしてもねっとりと”時”が身体に絡みつくのを感じた。
(何処から来るの……!?)
斬撃の軌道が無数に舞う世界で、それはまたしても何処からとも無く現れた。
二度目も突き。打刀の先半分だけの軌道はまるで幽霊のような印象を受ける。それはゆっくりと、機械のようにこちらへ進んでくる。
しかし、それは幽霊などという生易しいモノではない。アレは”死神”。触れる者の命を奪っていく抗うことが出来ない存在だ。
その”死神”は火子の心臓に触れようと無慈悲に迫る。
火子は身を捩るには時間が掛かると判断。強引に腕を引き下げる。
(間に合ってっ!!)
どうにか下げることが出来た腕の肉を”死神”が切り裂く。しかし、腕を下げるだけでは完全に防ぐことは出来ず、その刃は火子の柔らかい乳房にまで食い込んだ。
「う、あ……!」
苦痛に苛む声と同時に、”時”が元に戻る。火子は腕の肉が削ぎ落とされていることと、胸が見る見るうちに赤く染まるのを確認した。そして――自分の体力が著しく失われていることにも。
「二度も受けて立っていられる人なんてそうそういませんよ? しかし、三度目は無さそうですね。何度もあの迅さについて来られること自体、異常なのです。さぁ、次でお眠りなさい……」
慈悲深く聞こえるその声は、まぎれなく死を司る神の如く。火子の足元に出来た血溜まりに飛び込む川蝉のよう走り始めた。
(確かに次でおしまいだけど……)
火子はいつもの様に構え、そして――足に力を込めた。
(それは貴女のほうっ!!)
巴の腕が霧のように消えたのに合わせ――巴が先ほどまでしていたように――突貫する。
「はあああああああっ!!」
恐れるな。何も恐れるな。刃を恐れるな。血を恐れるな。死を恐れるな。
呪文のように言葉を繰り返しながら刃をその身に浴び続ける。顔を守ることもせず、そのまま斬られるままにしている。
火子は先ほどの”非時”で気付いていた。あの一撃は”時間”が緩やかになってから繰り出されるものではなく、今、この暴風雨が吹き荒れる時にこそ繰り出されているということに。
一箇所を見るのではなく、全体を俯瞰する。その教えのまま、自分に襲い掛かる刃すべてを眺め続ける。
そして気付いた。ある上段からの唐竹割りが陽炎のように揺らめき――消えるのが。
瞬間、時は急激に重たく粘つき始めた。
(…………っ!)
血と刃の軌道が彩る世界を打ち砕く槌のように、唐竹割が巴の脳天目掛けて振り下ろされる。
しかし先ほどとは違う、予め何処から来るかは目星が付いているという事が火子の生死を分けた。
一定の速度を保ったまま堕ちて来る”死”を、火子は無意識のうちに、何度も何度も練習した動きで受け流す。その動きに脳が影響されてか、同時にある記憶が走馬灯のように脳裏を掠めた。
『火子、今日お前に教えるのは”空蜂”っていう凄い格好良い技だ!』
『”空蜂”? 何がカラなの?』
『違うぜ! これは空に穴を開けるぐらい凄い蜂の針を真似した技なんだ!!』
『空に穴が開くの? すごいねっ!!』
『だろう! よし、まず俺が手本を見せるから……』
そこにはまだ幼い、少年と少女がいた。少年は嬉しそうに技を披露し、少女は目を輝かせて拍手を送る。そうすると少年は恥ずかしそうにはにかみ、少女に手取り足取り教え始めた。二度と戻れない楽しかった日々、いつまでも続くと思っていた幸せな日々。その楽園にも似た幻影を打ち砕くように火子は突撃する。
捌いた太刀をそのまま、肩で巴をかち上げる。必殺の一撃を流され、その上カウンター気味にぶつかられたこともあり、あっさりと巴は地から足が離れてしまった。
ふわりと浮いた巴を、得物を狙う猛禽類にも似た両の眼で捉えた火子は呼気とともにある言葉を吐き出した。
「――炎燈寺流、”空蜂”」
歪んだ時間を穿つように放たれた火子の右拳は、無防備な巴に腹部に拳がそのまま食い込んだ。
水甕に大きな石が投げ込まれるような、体の心にまで震わせる低い音が鳴り響く。
その拳速、音の大きさとは対照的に、巴は吹き飛ばされることもなく、火子の突き出した拳の上でぐたりと脱力していた。刀二本が手から滑り落ち、カチャリと小さな音を鳴らす。そして、火子が拳を素早く戻すとそのまま廊下に受身も取らずにうつ伏せのまま崩れ落ちた。
顔から流れる血を軽く拭ってから、火子は巴を仰向けにした。寝かされている巴は最初こそ気を失っているものかのように見えたが、それは違った。
彼女は身体をピクリとも動かさず、七転八倒して悶絶していた。
表情すら能面のように固まらせ、まるで蝋人形のようになってしまっている。しかし火子には、巴が今この世のものとは思えない痛みに苦しめられていることが分かっていた。
「……炎燈寺流、”空蜂”とは名前の通り蜂の針をイメージしたものです。しかし、本当の由来は違います。蜂は蜂でも寄生蜂を模した技であり、技を喰らった人間は体が麻痺し、意識がある状態で想像を絶する苦痛を味わうのです。そう――腹を幼虫たちに貪られるような」
火子は闘いが終わり、スイッチを切って元の”人格”に戻った。そして、そのまま無反応の巴に話を続ける。
「楽しんでください、一条先輩。この技の醍醐味はこれからです。植え付けられた幼虫たちがはらわたを食い破り、その顎を天に晒すまでもう少しです――ほら、今にも」
火子の言葉が契機になったのか、巴が震え始めたかと思うとひきつけのように身体を強張らせ、ついにはブリッジのように反り返って腹部を空へと突き出す。
「アァァァァァッ!?」
耳を劈くような大声を出しながら巴は両手を天に向けたかと思うと、何度か痙攣した後、白目を向いて倒れ伏した。その光景を火子はただ、見ていた。
「……私の勝ちです。今しばらくそこでそうして寝ていてください」
それだけ言うと、火子は巴から目線を外し、誰か来ていないかと少し前のように廊下の先を見据える。しかし、そこには荒い息を吐き出している男がいた。
「――火子、か? お前、いま……巴に何をした?」
司だった。司は己の目の前にいる血まみれの少女が自分と血の繋がった存在だとは思えなかった。何故なら、司の目に映っていた火子は血に汚れたまま、笑みを浮かべて巴が苦しんでいるのを眺めているという異常な状態だったからだ。
それだけじゃない、彼はその前の光景も見ていた。刀を振り回す巴に嬉々とした表情で迫る火子、そして二人の動きが加速し命を削り合うその姿まで。
「何をしたって……見ての通りですけど?」
悪びれる様子もなく、何処か苛ついた風に火子は答えた。その態度に司は怒りを爆発させた。
「そうじゃない!! お前は”俺の友達”に何をしたかって聞いているんだっ!! 何でお前までこんな所にいる!? 仁に唆されたのか!?」
火子は唇を噛み締めて怒りを押し殺す。その怒りは”実の兄”に対する情けなさと”育ての兄”を貶されたことに対する憤懣であった。
「……その腐った根性、火子が叩き直してあげます。さぁ、お急ぎなのでしょう? かかってきなさい」
血の滴を垂らしながら、火子は司と対峙する。ブラウスは元の姿を失い、もはや肌と血を隠そうとはしていない。満身創痍、絶体絶命、火子を表わす言葉はどれも夜の海のように暗く、不安を煽るものであったが、
(それでも、私が為すべき事は変わらない……!)
誰もここを通さない。それが火子に与えられた仕事、責務。なればこそ、休憩などいらない。ただ、守り続ければ良い。確固たる決意は希望を生み、希望は立ち向かう勇気を与える。
「退いてくれ、火子……。俺はお前を――」
司が何を言おうとしたか定かではないが、火子は全てを聞く前に司へ立ち向かった。それはまるで何かを切り捨てるかのように。自分自身を投げ捨てるように。
加虐の愉悦に心を染めているかのような火子を、司は苦虫を潰したような顔で迎え撃ち、
「退けぇぇぇぇっ!!」
叫び声をあげて拳を振り上げる。二人の距離は見る見るうちに縮まり、ついに衝突した。
一旦、今回はここでお終いです。そろそろ次回作へと移行していきます。