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「今だ! 清十郎、ここは任せたぞ!!」
晃が用いたのは、彼お手製の閃光手榴弾だ。容易に手に入れることが可能な薬品とアルミホイルで作ることが出来るそれは、夜の校舎の一角で眩く光を発した。
あらかじめ目を守っていた晃と清十郎は行動に支障は無いが、司と長宗我部はそうはいかない。二人の視界が塞がっている間に決着をつけようと清十郎が息を整え、突っかけるが――
「……!? 秀久、お前……!」
長宗我部が己の体を壁にして閃光から司を守ったため、司の目は視界が歪む程度で済んでいた。
「早く、行け……! 目が潰れたままでお前を守れるほど俺は強くない――グゥッ!!」
普段の清十郎とは全く違う、真剣というより鬼気迫る表情で彼は長宗我部に鳩尾へ蹴りを見舞う。長宗我部の体にめり込んだ素足を素早く戻し、さらに鼻面へ正拳を叩き込む。
清十郎は声も出さず、さらに攻撃を組み立てる。仰け反る長宗我部の襟を掴んで引き寄せて腹部へ膝蹴り、そして力が抜けた体を強引に持ち上げて壁に投げつける。
「ハッハー! 大将に仕込んでもらった技の味はどうだーッ!? テメェにボクシングなんて必要無ェ!! それに俺ァ――喧嘩のほうが得意だしなァ!!」
下腹部を押さえ、壁に凭れながら長宗我部は立ち上がる。しかし足は震え、鼻血が制服を赤く染めており、呼吸も不規則なものになっている。目こそ闘志に燃えているが、そのダメージは決して小さなものでは無い。
(よし! 上手くいったぞ。僕も急ごう!!)
晃はその様子に安心し、自らが為すべきことを為すために、廊下を駆けていった。
それに対し、司はまだどうすべきか迷っていた。長宗我部と共に戦うか、美衣を止めに行くか、と。その迷いに終止符を打ったのは、ざんばら髪のまま荒い息を吐く長宗我部だった。
「何をしているっ! 炎燈寺と橘を止められるのは藤堂、お前だけなんだぞッ!?」
彼は未だに焦点の合わない目で、司のいるだろうと思える方向へ向き、叫んだ。
「ッから大将はもう止まりたくねェって言ッてンだろうがァ!!」
清十郎が放ったフロント・ハイキックは見事に長宗我部の顔面に突き刺さる――寸前、身を捻って避けられ、壁に足裏が叩きつけられて乾いた音が鳴る。
「あァ!?」
驚きに顔を歪ませる清十郎。長宗我部は流れるような動きで、伸びた足――膝を狙って肘打ち、「ッてェ!」と声を上げてバランスを崩したところを見計らって片足を己の右足で払い、崩れ落ちる清十郎の顔を掴んで思い切り廊下に後頭部から叩き落した。
「ふむ、なかなかに効くだろう? ――ここは大丈夫だから早く行け、藤堂」
苦痛を堪え、どうにか薄く笑う長宗我部を見た司は、「すまん、必ずあとで助けに来る!」と言って美衣のあとを追い始めた。
「全く、優柔不断なヤツだ。さて――いつまで寝ている?」
頭を抱えてもんどりうっていた清十郎は、その声を聞くと体をばねにして跳び、立ち上がった。
「あークッソ、すげェ痛ェぜ! テメェこのやろう、これ以上馬鹿になったらどうすんだコノヤロウ!!」
「あんな手を使った人間にそんな事を言われる筋合いは無いっ。して、どうした? もう終いか?」
長宗我部の目は完全には回復していない。どうにか、物の形がぼんやりと見える程度だ。それも夜の闇のせいで見えにくいことこの上ない。それでも彼は眼前の男に負ける気がしなかった。
(所詮アレは喧嘩自慢程度の力量だ。俺の敵では無い、な)
この程度の相手ならいくらでもしているし、動きも大振りで隙だらけだ、とそう清十郎のことを判断した。しかし、その清十郎は己の頭を擦りながらトッ、トッと軽く跳ねてリズムを刻み始めた。
「……そう言えば、ボクシングがどうとか言っていたな、お前」
長宗我部の問いに、腕を軽く振り回しながら清十郎は答える。
「俺の本職はボクシングだ。知らなかったのか?」
そして、さらに沸いた疑問についても訊ねる。
「……何でボクシングなのに胴着なんだ?」
彼はステップを踏みながら質問を返した。
「――炎燈寺の大将がくれた勝負服なんだよッ!!」
先ほどとは打って変わって緩急をつけた動きで近寄ってくる清十郎を、長宗我部は体を脱力させて、屈むような体勢で迎え討った。
晃は廊下を駆けながら、仁との出会いを思い出した。
以前の僕は肩身の狭い学校生活を送っていたものと思う。
僕は自身のことを客観的に見て”オタク”であると認識している。しかし、それは他者が張ったレッテルであり、僕自身は自分の在り方を「好きなことを好きなだけ」と考え、行動する、欲望第一の人間にしか過ぎないと思っている。もちろん、これは僕がそう思っているだけで、世間はそう受け取ってくれるわけが無い。人は自分に都合の良いように事実を歪曲するからだ。
当時、学内ヒエラルキーは一番上に”四天王”の面々を据え、最下層には”オタク”が位置づけられていた。この階層構造はそのまま、その人間の階級のように扱われ、上層の人間たちは羨望の的、下層の人間は軽侮の的となった。そして僕も、その抗えない掟にも似た、得体の知れない”何か”に巻き込まれ――イジメられた。
最初こそ、理由も無く嘲笑われる、公然とした無視という程度のものであった。
「下らない……」
ついて出たその言葉が、僕自身の正直な感想だった。下らない、と。こんなことに労力を費やすなら自分の夢に向かって”努力”とやらをすべきじゃないか、と。
しかし、そのイジメは月日が流れるうちに苛烈を極めることとなった。僕自身の持ち物――筆箱やノート――が紛失する、登校すると僕の机が無くなっているといった学業に支障が出るほどのものとなっていた。自分のノートが侮蔑を極めるイタズラ書きに埋め尽くされていても僕は、
「下らないな……」
と心底思った。こんな格付けも、こんなことをする人間も。普段は「団結」なんていう耳障りの良い言葉を掲げる人間たちが必死にすることがこんな矮小なことだ。この世界は本当に”下らない”な、と。
こんな境遇にこそあったが、僕の心には波は立たなかった。それなりに平和だったと言っても過言じゃないと思う。それほどにまで僕はこの現象を無感動に受け止めていた。
その頃の僕は、今ほど現実世界に価値を見出していなかった。本当に大切なものは、この世界に存在せず、”二次元”という向こう側にしか存在しないと思っていたし、そう信じていた。それはきっと、今から考えれば単なる現実逃避でしかなかったように思える。
そしてある日、ついに”それ”は訪れた。
教室移動から帰ってきた僕の目に飛び込んできたのは、刃物でズタズタに弄ばれた――僕の愛する人の姿だった。
当然、それが生身の人間なんかではなく、見る人によっては単なる雑多なテレホンカードにしか過ぎなかっただろう。しかし、それは僕が生まれて初めて”恋焦がれた”人の写し身であり、僕が大切に手帳にはさんで持ち歩いていたものだった。
恐らく、誰かが僕の鞄を漁って見つけたのだろう。僕の机の上でバラバラにされてしまった彼女の姿はあまりに痛ましく、僕はニヤニヤ嗤う教室の人間たちに吼えた。
「誰だッ!? 彼女を辱めたのは誰だッ!! 何か文句があるなら僕に言え、何かしたいなら僕にしろ!! 何だって彼女に手を出したッ!?」
僕の訴えはクスクスという笑い声に掻き消されてしまった。誰も何も答えず、僕の反応が面白いようで嘲るだけだった。
「……何が”彼女”だ。バッカじゃねーの?」
僕の近くの席に腰掛けていた奴が厭な笑みとともに、そうポツリと呟いた。
それだけで、その時の僕は充分だった。僕はそいつに掴みかかった。
「貴様か!? 貴様がやったのかッ!?」
「何だよ、うっぜぇなぁ!!」
僕はそいつに押し飛ばされて無様に机ごと倒れた。”彼女”だった紙切れが宙を舞い、倒れた僕に降りかかる。
「勝手に犯人決めんじゃねぇよ。あーあ、ゴミに触られちまったよー」
そいつは僕の触れた部分を大仰に手で払うジェスチャーをして、周囲の笑いを誘う。ドッと嗤う周りの人間たち。その時僕の目は、廊下でたむろする”四天王”たちを捉えていた。
彼らは心の底から嬉しそうに笑い合いながら冗談を言い合っている。僕はその姿と、今の自分の現状に、どこか憤りすら感じていた。それは、彼らのうちの幾人が教室での騒動に気付いていながらも、それを無視したという事実が拍車を掛けた。
「――ちょっと、やめてくださらない? これ以上、下らないことをして騒ぐなら、教師たちに伝えてそれなりの処置を採ってもらわないといけなくなりますわよ?」
当時はほぼ面識の無かった夏瀬さんが止めに入った。彼女は心底煩わそうにしていたが、それはきっと、それだけこの問題の”どうしようもなさ”を知っていたからだろう。
「何だよ生徒会長さん? 俺は何もしてないぜ? この馬鹿が勝手に絡んできたんだろうが。それもたった紙切れ一枚で騒ぎやがって。何が”彼女”だよ、本当死ねばいいのに」
「……それは一方的に下らないことをしてくる貴様らが問題だからだろう。徒党を組まないと何も出来ない屑が」
僕は立ち上がりながら、教室にいる人間、全員を見渡し、言った。
「貴様らは全員屑だ! それも"罪”の意識の欠けたとびきりの、だ!!」
また嘲ることで僕の言葉をかき消そうとする彼ら。それより早く、僕は叫んだ。
「彼女を傷つけるものは僕が許さない! 絶対に、だッ!!」
僕が拳を作り、目の前の男に殴りかかろうとしたとき――
「――っと。こんな奴を殴るなんて勿体無いぜ」
ゴツゴツした、妙に大きな手のひらで僕の拳は包まれてしまい、ビクとも動かなくなってしまった。水を差された、と屹度振り返ると、そこには、
「悪いな、放っておけなくてな。なに、悪いようにはしないぜ?」
熊と虎を足して鬼で割ったような大男が立っていた。その時の僕は、申し訳ないが彼をそう形容した。男はその相貌には似つかわしくない、困ったような顔で自分の頬をぽりぽりと掻いており、見た目と相まって奇妙な違和感を覚えさせる仕草だった。
「君は誰だ? 僕の邪魔をするのはやめてくれないか?」
よくもまぁ、当時の僕はあんな威圧感を持った男にそんな事を言う勇気があったものだと今でも不思議に思う。それほど、僕は見境無く怒っていたのだろう。
その言葉に大男は「あー……」とさらに困ったように頭をボリボリ掻いた。
「そうだな、自己紹介しないと失礼だな。俺は炎燈寺仁、ただの通りすがりだ。……さぁ、もういいだろう?」
“炎燈寺”という言葉を聞いた周囲の人間が、ざわざわと騒ぎ始めた。時折、「化け物」という言葉まで聞こえてくる。しかし、当の本人は顔色一つ変えず、涼しげだ。
そして、僕が答えるのを待たず、炎燈寺と名乗った大男は、先ほど僕を扱き下ろした男の前まで歩いていく。
「な、何だよ……?」
完全に怯えてしまっているのがこちらにまで伝わってくる。強がっているが、腰が引けてしまっており、それほどまでに、この炎燈寺仁という人間は有名なのかと、当時の僕は訝った。
「謝るなら今のうちだぞ?」
随分間抜けなことを訊ねるものだ、と思った。それは、怯えてしまっている男も同じだったらしく。
「何を謝れって? むしろこっちは汚ねぇ手で触られたんだ、クリーニング代が欲しいくらいだ」
へへっと未だに虚勢を張っている男に対し、炎燈寺はハァと溜息をつき、おもむろに机の中に手を突っ込んだ。
「な、何しやがる!?」
男が驚くのをよそに、炎燈寺は教科書を束のまま引っ張り出して――破いた。
「な……!?」
僕はその光景を驚嘆とともに見守るしかなかった。束ねられた教科書やノートがブチブチと音を立てて破かれていく。それはまるでテレビの中の超人のように、引き裂いては重ね、またそれを引き裂き、あっという間に紙吹雪へと変えてしまった。
「ふ、ふざけんなぁー!!」
男が炎燈寺の胸倉を掴む。しかし依然として涼しげな彼は当然のように答えた。
「――たかが紙切れ、だろ? そう言ったのはお前だぜ?」
炎燈寺は次に机に掛けられていた鞄を手に取り、
「ふんっ!!」
気合とともに、中身もろごと引き裂いた。中にはジャージなども入っていたようで、
「ん? 布も入ってたみたいだな。ま、布も紙もあんまり違わんだろ……千切れるし」
「やめろぉ! くそ、やめろよ!!」
この時になって男は自分の置かれていた状況に気付いたようで、彼に殴打や蹴りを加えるが、一向に効いている様子は無く、機械のように動き続ける。
炎燈寺は両手に持っている鞄を興味無さげに放り捨てると、次の標的を探し始める。
「次は――これだな」
炎燈寺は無駄な抵抗を続けている男の肩に、ポンと手を乗せる。男はその言葉が意味することを理解できないようだが、何かとんでもないことをされる、という事は理解できたようで顔色が蒼白となる。
僕はというと、あまりの現実感の無さに、夢を見ているような気分になっていた。それと同時に、目の前の彼――炎燈寺仁に強烈に惹かれ始めていた。
僕の気持ちを知ってか知らずか、炎燈寺が僕へ顔を向けて、イタズラ小僧のように笑った。
「少しばかり悪いとは思うが……いくぜ?」
そして肩に掛けた手に力が入ったと思った瞬間、ブチィという耳障りな音とともに両手が横に伸ばされていた。
「……え?」
男は自分が何をされたのか分からなかったらしい。そして、炎燈寺の手にあるもの、つまりは彼が先ほどまで着ていたブレザーとシャツが真っ二つにされているのを見て、初めて自分の上半身が裸になっているのに気付いた。
「さぁ、次は下といこうか? その後はお前自身だ。ついでに鞄の中の物を一つ一つ叩き割っていこう」
まるでそれが日常的なことだと言わんばかりの軽い口調でそう言う炎燈寺。そして、ついにみっともなくブルブル震えて謝り始める男。その対照的な姿を見て、僕の気持ちは割りと落ち着いてしまった。
「ごめんなさいっ、もうしませんから……もうしませんから……!」
涙まで流し、許しを請う男。まさかここまでされるとは思っていなかったらしく、あまりに惨めだ。
「……だ、そうだ。どうする?」
肩を竦めて炎燈寺が僕に訊ねてきた。僕はイライラを吐き出すように溜息をついて、
「――いいよ、もう。炎燈寺……くん、でいいかな? どうもありがとう。すっきりした」
感謝を述べた。一時的ではあるが、これで僕への下らない嫌がらせも減るだろうと思うと少しは気が楽になる。
「俺のことは仁でいいぜ? それと、あー……アレだ」
仁は無理やり僕を引き寄せると、一部始終見ていた教室の人間に向かって吼えた。
「一度面倒見たからにはコイツは俺の友人だッ!! またちょっかい出してみろ? 次は遠慮なくいくぜ!? 分かったかッ!?」
先ほどまでこちらに注目していた人間はみな一様に下を向いたり、そっぽを向いたりし始めた。僕はというと、そうして吼える仁の顔を彼の胸の中でうっとりと眺めていた。
「して、名前はなんて言うんだ?」
仁に問われ、僕は顔を赤くして答えた。
「……晃、煙崎晃だ。僕のことは晃でいい」
仁は白い歯を剥き出しにして笑いながら、握手を求めてきた。当然、僕もそれに答える。
「よろしくな、晃!」
「あぁ、よろしく……」
二人の手がまたしても触れ合う。あの時と違うのは僕の手が拳ではなく、そしてお互いに、新たな友人との出会いを祝福するものであったということだ。
これが僕と炎燈寺仁、彼との出会いだった。あれ以来、いやがらせはめっきり減った。ほとんど無い言っても遜色無いほどだった。
後で、僕は仁に訊ねたことがある。「どうして僕を助けたのか?」と。
彼は恥ずかしがりながら答えた。
『そもそも弱い者イジメが……いや、晃が弱い者って訳じゃあないぜ? 要は大多数で一人を嬲るってのが気に食わないってのもあるが、何よりもあの時の晃の態度が気に入ったんだ。あの大切なものを守ろうとする、直向きさ。それを見て、力を貸してやろうと思っただけさ』
それはきっと、彼自身が橘に取る態度と同じものだったのだろう。それがきっと彼の心の琴線に触れ、僕を助ける要因となったに違いない。
「……それだけで人を助けようなんて思えるなんて仁、君はやっぱりお人よしだよ」
言葉通り”助けられた”のだ。滅茶苦茶だと思える方法で助けられた。それは、同情や憐憫などで得られるものではなく、直接的な行動でしか得られないものだ。そこまでのことをしてくれた人に僕は、恩を返さなければいけない。恩も返せないならただの屑だ。
走り、階段を昇り、やっと僕は第二教室棟の二階、清十郎たちを窓から見下ろせる場所にたどり着いた。用意しておいたクロスボウを取り出して矢をセットする。スコープのおかげで、この距離でも清十郎と長宗我部の姿は闇に塗りつぶされること無く、はっきりと見える。
見た感じでは、やはり清十郎が押されている。彼は顔から血をだらだら流し、歯を食いしばって闘っている。ステップとともに踏み込み、目にも止まらぬ速さで打撃を繰り出すが、長宗我部にあっさりと捌かれ、そのまま腕を掴まれて壁に叩きつけられていた。
「清十郎、まず”一つ目”だ。合わせてくれ」
僕の声が通信機越しに聞こえたらしく、ちらりと僕の方を見た……ような気がした。
開け放った窓の向こうから「次、いくぜェー!?」という掛け声が聞こえてくる。ステップを刻む清十郎、特に構えを取るわけでもなしに突っ立て居る長宗我部。
僕は窓から身を乗り出し、長宗我部を”殺す”という覚悟を胸に、矢を――放った。