四十八話 ショウタイ
ゆっくりとバイエルに近づいていく。一歩一歩と近づくたびにバイエルの顔から流れる液体は、その種類と量を増していた。汗とも涙とも、鼻水ともよだれともわからない液体が顔面にこびりつき、見るに耐えない。
「く、来るな、こっちきたら一緒にポカンだぞ!」
それを言うならドカンだろう。マヌケなセリフに確かに一瞬ポカンとしてしまうが……。
「やってみろよ。死ぬのは怖くないんだろ?」
するとバイエルは、僕の右手を指差して必死に叫んだ。
「嫌だぁ! 『それ』は絶対イヤだあああああああ! 助けて、ママーーーーーー!」
腰を抜かして、膝から崩れるバイエル。震える足で逃げ出そうとするが、うまく動けないらしい。
「ひ! ひひひいひひ! もう、知らないぞおおおお? お前も一緒にこンがり焼け死ね!」
バイエルの目はすでに焦点が定まっていない。その空ろな瞳のままで戦略級クレストを起動させた。起動したクレストを僕に向かって放り投げると、バンザイをして声高にバイエルは叫ぶ。
「ばかやろー! ざまあみろーー! これでお前も一緒にまるこ――いひ!?」
クレストから恐るべき熱量が放出される。だが、それは一瞬の事だった。
「ムダだよ、バイエル。それより、『おかわり』は無いのか?」
そうだ。僕の前ではいかなるルーンも無意味だ。それは戦術級だろうと、戦略級だろうと、クレストであろうと、ルーンであろうと関係ない。闇は瞬く間にクレストから発せられた熱と光を発生源であるクレストごと飲み込み、その体積を倍に増した。しかし、まだ食い足りないのか、目の前の獲物を見て嬉しそうに波打つ。
「あ……ひ? 戦略級だよ!? 町吹っ飛ぶよ!? こンがり焼け死ぬのよ!?」
バイエルは唖然として、今もなお目を見開き、口をあわあわと動かしている。
「次はお前だ。バイエル」
すると唐突にバイエルは震えを収め、不敵な笑みを浮かべ立ち上がる。さらに、僕に向かって走り出してきた。何だ? 最後の悪あがきか? そう思って闇を差し向けようとした途端。
「アルフレッドしゃまーー!」
いきなり僕の目の前で土下座をし、ひれ伏した。
「ゆ、ゆるちてくだちゃい! そうだ。私めがシャナールの貴族にして差し上げましょう! どんな奴隷も使い放題、殴り放題! 女の奴隷も、もちろンおりますとも! えへへ。一生遊ンで暮らせるように――」
「僕みたいな猿が、一万年の進化の過程すっとばしちゃうけど、いいのか?」
意地悪く、頭を地面にこすり付けたバイエルに冷たく言い放つ。バイエルは額に付いた土を気にも止めず、必死の形相で愛想笑いを浮かべて、もみ手をしながら下手なお世辞をまくし立てた。
「そ、そんな。アルフレッドしゃまは、全知全能、世界を統べる王! 猿なンかではございませんよぉ。そう、猿は私バイエル! 私でちた! キーキー! キーキー! ね?」
急に猿の物まねを始めたバイエル。もう言葉も出ないくらいに呆れ返る。
「見苦しい。失せろ」
途端に目に涙を一杯ためて僕にしがみつく。そこからさらに僕の服を伝い、顔をよせてくるので顔面に蹴りを入れる。
「きゃいン!?」
数メートルをハデに転がり、立ちあがったバイエルの顔は右ほほがへこんでいて、歯も数本砕け、鼻がありえない方向に曲がっている。
「あ、アルフレッド……しゃまー」
バイエルの顔面から流れる液体に、もう一種類追加される。それが滝のようにバイエルの口元を濡らし、地面に小さな赤い池を作った。
「もう、いいだろう?」
全身を震わせるバイエルだったが、急に震えを止めると笑い出した。
「ヒャハハハハハ! おせー! おせーよお! 待ちわびたぜぇ!」
「……何だ?」
バイエルの視線は……僕に向けられているものではなかった。僕の後ろのようだ。
「『黄金の』! その猿をぶっ殺しちゃってええ!」
背後に嫌な気配がして振り向く。
『おひさしぶり、アルフレッドぉ。お元気してた?』
赤いローブ。そして黄金の左手……。
「黄金のヴァンブレイス!? 何でここに……」
口元は何がおかしいのか、常にニタニタと笑いをこらえているようだ。
「俺の依頼よぉ。本来はガイザーのアホ殺す依頼してたンだけどさぁ。お前が殺しちゃったから、依頼変更してたのよー! おい、黄金の。俺を守れ! この俺の……美の女神も嫉妬する美しい顔を、こんなに、ガルダも裸足で逃げ出したくなるくらい、可愛らしくしやがってえぇぇぇぇぇぇぇ! バイエル怒っちゃったぞぉ、プンプン!」
『……』
黄金のヴァンブレイスが……ガイザーだけでなく、バイエルとも繋がっていた? いや……待て。そもそも、こいつがバイエルとガイザーを繋げていたのかもしれない。だけど、何のために……?
「おい、黄金! 早くやれ! このウスノロ!」
ヤツは跳躍すると僕の頭上を通り越して、バイエルの前に降り立ち、僕を遮るように前に出る。
「エルドア猿が! 100万年の進化の過程すっとばしてぇ、シャナール帝国人になれるわけねーだろぉぉぉ!? 小さい脳ミソでよーく考えてごらンくだちゃい、ヒャハハハ! ヒャハ――」
バイエルの笑い声が遠のく。一瞬、それがどうしてかは解らなかった。地面にぐちゃっと何かが落ちた音が僕の耳に入るまでは。
二つになったバイエルの体は赤い噴水となり、黄金のヴァンブレイスのローブをより一層赤く染める。
右手を肩の位置に水平に上げたまま、返り血を気にも止めず、僕に向いたままヤツは言う。
『だーれがウスノロだ』
黄金のヴァンブレイスは右手を少し振っただけだ。たったそれだけで……。
「今日こそ終わりにしてやるぞ、黄金のヴァンブレイス。そのために僕はこの力を……!」
右手の闇をヤツに向ける。しかし、あいかわらずのニタニタと不気味な笑いを浮かべるだけで、まったく動じない。
『やっぱり、アルフレッドはすごいね。私の期待通りだ。さあ、早く私を殺してご覧。ここにいるから。ほらあ、ここだよ。フフフ』
一歩前に出た黄金のヴァンブレイス。僕はそのフード目掛けて、闇を走らせる。
まずはその顔を拝ませてもらおう。その上で、僕の前にのこのこ出てきたことを、今までの恨みを全てここで晴らさせてもらう。
僕の闇がヤツのフードを引き剥がし、伝説の殺し屋の顔を、その一切が不明であった全貌の一部をあらわにする。
地面にやぶれ落ちた赤いフード。そして、その持ち主の顔を見て僕は絶句する。フードの下の顔は……。