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黄金のヴァンブレイス  作者: 岡村 としあき
第一部 第四章 『ロッテ・ルーインズ』
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三十一話 ゼンセ

 『他に好きな女ができた』。その言葉が私の頭を貫いた。一瞬思考が停止して、彼が去って行ったのに気付いたのは、玄関のドアが閉まった後だった。


 また、捨てられてしまった。元々親に捨てられ、身寄りがなかった私だ。一人とか孤独にはなれきっていた。


 けど……今回はさすがに堪えた。彼とは1月後に籍を入れて、新しい生活が始まるはずだったから……ショックは計り知れないくらい大きい。


「また、独りぼっちか……私にはそれがお似合いってわけ?」


 マンションの玄関で、彼が去っていたドアのノブを見て一人呟く。勢いよく開け放った拍子に、小石か何かがドアに挟まってしまったのだろう。隙間風がドアから入り込んで、心だけでなく、体まで冷え切ってしまいそうになる。


 リビングに戻り、彼ととるはずだった夕食を眺める。彼は人一倍食べるので、テーブルの上は料理で溢れかえっていた。


 仕方が無く、私は一人でその大量の料理と格闘する事になったのだが、ご飯を口に入れてすぐに異変が起こった。


 突然の吐き気。すぐにトイレに駆け込んだ。トイレから出た私の脳裏に一つの単語が閃いた。直感的な物だったが、考えてみれば、色々と条件はそろっている。


 翌日、私は仕事の帰りに薬局で妊娠検査薬を買って、自宅で使い調べてみた。結果は……陽性だった。彼以外の男性と付き合ったことは無い。だから、このお腹の子は私と彼の赤ちゃんなのだ。


 私の中に宿った新しい命。私の赤ちゃん。私の家族……。


 彼にこの事を言うべきだろうか? いや。絶対に言わない。私を捨てた男なんかに、この子は渡さない。一人で育ててみせる。私には、この子がいればそれでいい。


 私は決心した。早速本屋に立ち寄って、育児本を買いあさり、ネットで色々と調べてみた。


 名前も考えなきゃいけない。男の子だったらどうしようか。女の子だったらこんな名前がいいな。そんな風に楽しく想像を膨らませていたら、あっという間に月日が流れた。


 初めての出産。それに、私には親もいない事もあって、周りに頼れる人はいない。苦労の連続だった。けど、きっとこの子と一緒ならどんな苦労も乗り越えて行ける。そんな気がして毎日を精一杯生きた。


 妊娠7ヶ月になり、私はすっかり妊婦さんらしくなった。大きなお腹。期待で胸が一杯になる。


 そんなある日の事だった。突然、玄関をせわしなくガンガンと叩く音が聞こえて、私は転ばないように細心の注意を払って玄関を目指した。


「よう。俺だよ、俺」


 彼だった。


「金貸してくんね? 彼女と別れて仕事も失くしちゃってさあ。少しでいいんだよ、少しで」


 もう二度と見たくないと思った顔だ。私はすぐにドアを閉めようとした。


「お前、妊娠してんだろ? 聞いたよ~俺とお前の子供だよな。ちょっと触らせろよ、いいだろ、なあ!」


 強引に部屋に入ってくる彼を押し止める。冗談じゃない。今更あんたの顔なんか見たくも無い。こんな身勝手な奴だとは思わなかった。付き合い始めた頃は優しくて、気遣いのできる男だと思ったのに……。


 しかし、女の力で男の力に敵うはずも無く、ドアは強引にこじ開けられ、彼が部屋に汚い足でずかずかとあがりこんだ。


「帰ってよ! 私を捨てておいて、今更なによ!」


「おい、調子こいてんじゃねーぞ。俺だって父親になるから、ケジメ付けに来ようと思ってたのによお、ざけんな、このアマ!」


 わけのわからない事を言って、彼は私を思い切り突き飛ばした。


 打ち所が悪かったのか、頭を下駄箱の角でぶつけてしまい、私の意識は一瞬でどこかへ飛んでしまう。


 次に気が付いたのは、ベッドの上だった。朦朧とする意識の中、現状を把握しようと懸命に思考する。


 たしか、私は……彼に突き飛ばされたんだっけ? そうか、ここは病院。ベッドの上で四肢を少し動かし、体に異常が無いことを確認し、ほっと一息を付く。


 突然扉が開いて私は驚いた。初老の医師が気の毒そうな顔をして、私のベッドの傍らにやってくる。


 どうして? 私の体はなんともないのに。


「非常に言い辛いことなのですが……あなたは――」


 医師が去った後も、私は途方に暮れていた。何も考える事も出来ない。どうして? どうして?


 私に宿った命は……もう、この世に生を受けることはない。そして、私も……大切なものを失ってしまった。


 退院の日。生気が抜けた人形の様に自宅への道を歩いていた。夕方の住宅街。パトカーや、救急車がせわしなく走りまわり、何か事件があったのだと解った。


 だが、そんなことはどうでもよかった。


 すると、突然。彼が……あの男が私の前に飛び出してきた。右手には血に染まった赤い刃物……包丁が握られている。


 血走った眼で私を睨む。逃げろ。頭の中で誰かが叫ぶ。その声に従い私は飛び出す。一切振り向かずに、闇が支配しつつあった住宅街を私は突っ走る。


 道の途中で、ふと振り返り、男の姿を探すがどこにもない。ほっと安堵して前を見た瞬間。


 眩しい二つの光が私に迫ってきて……ほどなくして、全身に衝撃が走り、私は空を飛ぶ。


 様々なモノから開放される。重力から、肉体から、そして……私の意識は途絶えた。


 暗闇の中で私は願った。『もう一度生を受けることがあるなら、あいつに復讐したい――と』。


 私の意識は底の無い闇へと落ちて行く。やがて暖かい光に包まれたと思ったら、次の瞬間には暗い空間をさまよっていた。


 その空間は私だけが支配する私だけの世界。暗いけどあたたかくて、でも恐れはない。誰かを感じて護られている。そんな安心感。ずっとここにいたい。そう思った。不意に光を感じ、私はここを離れなければいけない事を悟った。光の向こうへと私は押しやられる。


 もう少しここにいたいと思う未練と、光の先への期待感。それらを胸に抱えたまま私は光を目指す。


 光の先には、それよりも眩しい笑顔があった。赤毛の男性がまず目に入った。中年の女性が顔を近づけ、なにやら嬉しそうに話しているが、その言葉は日本語ではない。英語でもなく、私の知らない言葉だった。


 私は、一体どうなってしまったの? その時の私は理解が追いつかなかったが、やがてそれが新たな生を受け、新しい家族を手に入れたのだと知る。


 私は、生まれ変わったのだ。

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