餡子防衛日誌
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「うーん…」
麦野杏子は机に向かい、目の前に広げた大量の資料を眺めながら溜め息を吐いた。
大学生活もいよいよ終わりを迎え、残すは卒論のみ。
しかし、そのテーマを決めることがこんなにも難しいなんて思いもしなかった。
「どんなこと書けばいいんだろう?」
いざ筆を取ろうとすると、全くアイデアが浮かばない。
無理に壮大なテーマを考えたところで、どうせ自分に書ける内容なんてないし。
「とは言え…ちょっとは真面目にやらないと、卒業できないよね?」
杏子は頭を抱えた。
だが、心の中で思いつくのは「どうせなら、面白いテーマにしてやろう」という妙な意地。
少しユニークなアプローチを取ろうと決意するものの、何の案も浮かばない。
その時、スマホが震えた。
母親からのメッセージだ。
『おじいちゃんの遺品整理、手伝いに帰ってきてくれる?』
祖父が亡くなったのは少し前のことだが、杏子は通夜と葬儀の参列後はすぐに忙しくなり、なかなか実家に帰ることができていなかった。
家族にとって一つの区切りの時。
気分転換にもなるだろうと、実家に帰ることに決めた。
実家に着くと、母親が忙しそうにあちこちを片付けている。
「杏子、ちょっとこの棚お願いね。この段ボールに整理しておいて」
「うん、分かった」
任された棚の中から、古びた箱を見つけた。
その箱には『極秘』とだけ書かれている。
興味本位で箱を開けると、中から出てきたのは分厚いノートの束といくつかの古い写真。
写真には、若い頃の祖父が他の職人らしき人たちと並び、真剣な顔で拳を上げている姿が写っていた。
ノートの表紙には『餡子防衛日誌』と書かれていた。祖父の文字だ。
「何これ?」
疑問に思いながら手にとってページをめくると、そこには驚くべき内容が綴られていた。
〔第一〇五日目。本日、つぶあん精鋭部隊が近隣の小売店三店舗を制圧。彼らは価格破壊という名の卑劣を撒き散らし、消費者の舌を麻痺させている。我々こしあん職人団は、最高の食感と風味という名の高純度障壁を展開し、こしあんパン占有率の死守を誓う!〕
日誌には、どう見ても『戦争』の記録が書かれていた。
細かい戦術の説明、人の名前、さらには戦闘の詳細な描写まで。
だが、その内容はまったくもって異常だった。
「あんパン戦争…?」
綴られている内容に、杏子は目を疑った。
次々と描かれる戦闘の記録。
両派閥の戦略や戦況。
さらには『奇襲作戦』や『戦略的パン作り』といった内容が延々と続いている。
「お祖父ちゃんがこんなこと…?」
一瞬、信じられない気持ちが頭を過ったが、どうやらこれは単なるお遊びではないらしい。
真面目だった祖父が、冗談で書いたとは思えない。
何か重大な秘密がこの日誌には隠されている、そんな気がした。
杏子は眉をひそめる。
ページをめくるたびに登場するのは、戦場の詳細や両軍の食文化に関する真面目な議論。
しかしその内容はどう見ても、ただのあんパンなのだ。
「まさか…お祖父ちゃんが、こんなことに関わっていたなんて…!」
杏子は困惑しながらも、読み進める。
どうやら祖父は、曾祖父が経営していた老舗パン屋の息子として、かつて『こしあん』と『つぶあん』を巡る熾烈な戦いに巻き込まれていたらしい。
〔つぶあん軍の奇襲攻撃!〕
〔こしあん軍の本陣が壊滅的な被害を受けた…!〕
そんな記録が、真面目な口調で綴られている。
杏子は日誌を持ったまま、しばし呆然と立ち尽くした。
「え?これ、どういうこと?戦争??まさかパンの話で?」
その瞬間、頭の中にあるアイデアがひらめいた。
「待てよ…このテーマ…卒論に使えるんじゃない?」
これを卒論のテーマにすれば、他の学生と差別化できるかもしれない。
どうせ誰も興味を持たないような内容になるだろうし、少しでも面白いテーマにした方がいいに決まっている。
「でも、何がそんなに激しかったんだろう? こしあん派とつぶあん派、戦った理由は本当に食文化だけだった?」
その時、杏子はふと気づく。
日誌の中に、祖父が所属していたらしい〔こしあん職人団〕なる集団の記録が頻繁に登場している。
「こしあん職人団…もしかして、この団体、ただのパン屋じゃなくて、もっと大きな組織だったのかな?」
そして日誌の、とある記述に目が留まる。
〔…我らが職人団の最高戦術顧問、北野香氏が提言した『コスト削減と高品質維持の二方面作戦』。これは現代経済学の教科書に載せるべき、戦略的な英断である。更に『価格を抑えるだけでなく、あんパン自体の形を変えて目新しさを出すべきだ』との提案を受け、新作のあんパン製作に取りかかる〕
「戦術顧問?経済学?」
その真剣すぎる言葉選びに、背筋が寒くなるのを感じた。
もし、これが本当に戦後の経済活動を記録したものだとしたら、ただのジョークではない。
祖父は、誇りをかけて、あんパンの市場シェアという名の『戦場』にいたのだ。
読み進めるほどに、胸の奥がじわりと熱くなっていくのを感じた。
これはもう、ネタなんかじゃない。
杏子の心に、卒論への悪ふざけとは違う、真面目な探求心が湧き上がった。
この日誌がフィクションではないと証明できれば、これは唯一無二の、学術的に価値のあるテーマになる。
「これだ。このテーマで卒論を書く」
杏子は早速、スマホを取り出し、論文のタイトルをメモした。
手早く片付けを済ませ、母に祖父の日誌を譲り受けることを告げる。
帰宅後、この日誌がフィクションではないと証明する裏付けが必要だ、とパンに関する資料を探した。
まずはネットで『こしあん つぶあん 対立』と検索する。
すると、出てくるのは予想通りのまとめサイトやジョークばかりだったが、その中に、戦後直後の食料統制解除後のパン市場における熾烈なシェア争いに関する真面目な経済記事を見つけた。
(記事引用:当時のパン職人たちは、安価なつぶあんの台頭を「伝統の破壊」と見なし、高品質なこしあんで対抗した…)
「…やっぱり、お祖父ちゃんの戦争は、誇張されながらも現実の経済戦争を反映していたんだ」
杏子は記事や資料を読みながら『こしあん派』と『つぶあん派』の対立が、ただの味覚の問題ではないことを理解し始めた。
この対立には、食文化の歴史に深く関わっていたようだ。
「普通の食文化だと思ってたけど、こんなに激しい対立あったんだ」
図書館にも通いながら、様々な情報を集める。
日誌に挟まれた古びた新聞記事を元に、老舗のパン屋で聞き込みをしたり、写しでいただいた菓子パン専門誌のデータの数々が、日誌の『戦況図』として蘇り始める。
単なるネタだった卒論が、にわかに学術的な調査へと変わり始めた瞬間だった。
更に調べていくうちに、戦後の日本であんパン市場における戦争が実際にどれほど熾烈だったのか、そしてその争いがどれほど人々の誇りと文化に深く根ざしているのかを知る。
〔つぶあん派が全国展開の店舗にて特売を実施。これにより、こしあん派は市場占有率を大きく失う〕
〔こしあん派は新作である、生地を薄くしたあんパンで見事な反撃を開始。新規顧客を獲得した〕
まさに商業戦争における奇襲、というところか。
「これが、お祖父ちゃんが戦争として記録した理由かな?」
更に読み進め、杏子は気づく。
これは本当に価値があるテーマだ、と。
「その争いは、結局…味覚や食文化だけじゃなく、各人が守りたかった誇りや価値観を賭けた戦いだったんだ」
杏子は自分の思考を整理しながら、どんどん戦争の深い部分に引き込まれていった。
戦いの終わらない理由、両者の誇り、そして食文化の正当性がどう絡み合っているのか。
それこそが自分のテーマなのだと確信する。
杏子はノートの後半をめくっていく。
そこには、祖父の名が頻繁に登場した。
〔試作品第二十四号。上層はこしあん、下層をつぶあんとすることで、味覚の融和を図る──禾穂案、評価高し〕
ページを追うごとに、祖父が和平の象徴を作ろうとしていた中心人物だったことが分かってくる。
評価の高いあんパンの試作に成功した次のページには、4月4日と日付が打たれ『最高機密和平会談』と走り書きされている。
その日以降、日誌の文字はさらに緊迫したものに変わり、会談に向けての調整が書かれて行き。
いよいよ、当日。
〔4月4日。本日、和平交渉は最終局面に達した。両軍の代表団が会するこの広間こそ、我々にとっては最後の戦場である。我々の技術を結集した『平和のあんパン』、それは最高のこしあんと、洗練されたつぶあんが調和する、かつてない逸品であり、技術の結晶だ。戦いは終わると皆が信じた〕
〔開発した『平和のあんパン』を手に、我々は主張した。「繊細で洗練されたこしあんこそ、パンの『顔』となるべきだ。こしあんが『上質』の象徴である」と〕
〔しかしつぶあん精鋭部隊は、自軍で開発した『平和のあんパン』を手に、「力強さと大衆性を持つつぶあんが、新たな時代の和平をリードすべきだ。つぶあんは『未来』の象徴だ」と言う〕
〔灼熱した議論は、最終的に両軍のリーダーが、試作品の二層あんパンを互いに投げつけ合い、かくして和平は潰えた。『平和のあんパン』は、『どちらが上層か』という、最も譲れないプライドのために粉砕されたのである。我々は知った。この戦いは、食文化の正当性をかけた、終わりのない戦いであることを〕
杏子は最後のページを開いた。
そこには、祖父の震える文字でこう書かれていた。
〔我々が守ったのは、こしあんパンそのものではない。それを作り、受け継ぎ、愛する人々の誇りである〕
深く息を吐く。
馬鹿げている、と思う人もいるかもしれない。
でも、信じられないほど真剣だった。
祖父が遺した日誌は、単なるパン職人の遊びではなかった。
杏子はノートを閉じて、しばし黙って考える。
「きっと、お祖父ちゃんにとっては“戦争”だった。小さな店でも、小さな町でも、誇りを守るために戦ったんだ」
小さな町の、小さな店の、小さな“戦争”に。
確かに、生きた人の熱と悔しさと希望が刻まれていた。
この戦争の根本には、単なる味覚の違いや流行だけでは説明できないものがある。
こしあんとつぶあん。
それぞれの派閥が持つ、誇り。
そしてその背後にある歴史。
食文化は、ただの食べ物を超えた、社会的な戦いを生んでいる。
「そういえばちっちゃい頃、よくおやつに、こしあんとつぶあんの二層式あんパンくれてたなぁ」
あれは美味しかった。
ふと思い出した、過去のぬくもりに、微笑みが浮かんだ。
杏子は大学の図書館を出て、近くのコンビニに立ち寄った。
目的は、あんパンだ。
陳列棚には個包装された、こしあんパンとつぶあんパンがそれぞれ隣り合って並んでいた。
その光景は、まるで静かに睨み合う両軍の兵士のように見える。
「まさかこんなテーマが卒論になるなんて…」
杏子は、日誌から読み取った祖父が守り続けた老舗のあんパンの味を思い出しながら、気がついた。
食文化の対立には、単なる味覚の違いや流行だけじゃなく、それを支えた人々の歴史と情熱が、そして譲れない誇りが詰まっていると言うことを。
祖父の『餡子防衛日誌』は、愚かでもくだらなくもない、戦記だった。
誇りを守るために戦った、熱い人々の生きた記録だ。
杏子は、ふと棚に手を伸ばす。
選んだのは、こしあんパン。
「…平和、だなぁ」
小さく呟いてレジに向かう。
その背後で、陳列棚に並んだこしあんパンとつぶあんパンは、今日もまた静かに、しかし互いに譲ることなく、それぞれの正当性を主張し続けている。
まるで静かに続く、終わりのない戦いの歴史を背負っているかのように。
Fin
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