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第四部 算士吾郎 八

 広敷番頭が不祥事を起こした、ということで大奥は大混乱に陥った。

 老中、松平定信が大奥を崩してしまう、という恐怖が駆け巡ったのだ。

 その通りであった。

 松平定信は、大奥に手を入れるので、これまで以上に忙しい日々が続くことを覚悟した。

 だが、その前に、黒鷹精久郎との約束を果たさなければならない。

 約束の日。

 松平定信は、町奉行を呼び出した。

「この手紙を、同心の芥川行蔵に届けよ」

「奉行の拙者が、同心に手紙を届けるのですか?」

「さよう。

 この手紙に関する限り、芥川行蔵は同心ではない。

 側衆と同格だと思え」

「か、かしこまりました」

「すべてが終わったら、お主にも事情を打ち明ける。

 幕府に関わる秘密ぞ」

「かしこまりました。

 この手紙、しかと、手渡し、いたします」

「たのむぞ。

 ああ、待て。

 芥川行蔵は奉行所にはおらんぞ」

「はっ?」

「山谷堀の料理屋『名月』で、手紙を待つ約束になっている」


 料理屋『名月』では、黒鷹精久郎と芥川行蔵が、膝を崩して、ぼんやりしていた。

 芥川行蔵は、紙になにかを書いている。

 黒鷹精久郎は、じっと、窓の外を見ていた。

 黒鷹精久郎は、右側に置いてある三尺三寸の大刀を取り、抜いた。

 刀を前に向け、鍔元から、刀身を通して、切っ先を見る。

 芥川行蔵が、聞いた。

「何をしているんです?」

「反りだ」

「反りですか?

 刀工による反りの違い、反りによる切れ味の違い、黒鷹さんなら、先刻、御承知でしょう」

「むろん。

 しかし、算術から考えたことはない」

「なるほど。

 いよいよ平賀源内と会うことになったので、算術ですか」

「どうしても、算術のことが頭に浮かぶ。

 平賀源内に、聞いてやろう。

 それより、お主は、先ほどから、何をしている」

「俳句ですよ。

〈人の世や 日本堤の 辻の駕籠〉は、どうです?

 それとも、

〈吉原や よくぞ男に 生まれけり〉」

「どこかで聞いたことがあるみたいだ。

 それに、どちらも吉原か?」

「まあね。

 黒鷹さんなら、〈黒い鷹 きのふは東 けふは西〉。

「それも聞いたことがあるみたいだ」

 その時、部屋の外で、目明しの佐助の声がした。

「旦那、御奉行様が、お見えですぜ」

「お通ししろ」

 入って来た町奉行は、驚いた。

 同心、芥川行蔵は、膝を崩して、手紙らしきものを読んでいる。

 隣にいる侍は、刀を抜いているのだ。

 黒鷹精久郎は、刀を納めた。

 芥川行蔵は、正座して、言った。

「御奉行、畏れ入ります」

「これだ。

 確かに、渡したぞ」

「はい、確かに」

「では、御免」

「ああ、御奉行」

「何だ?」

「よろしければ、料理はいかがです。

 店の者に、設えさせますが?」

「無用だ。

 御免」

 町奉行が出ていった。

 芥川行蔵が、佐助を呼び寄せた。

「常吉と二人で、すぐに、吉原の『海老屋』へ行け。

 『海老屋』の楼主に、すぐ後から、老中の手紙を持った同心が来る、と伝えろ。

「必ず、主人に、直接伝えろ」

 芥川行蔵は、小判を二枚、佐助に手渡した。

「急ぐから、駕籠を使え」

「へい。

 分かりやした。

 急ぎます」

「それと……」

「へ?」

「『海老屋』へ伝えたら、今日は、もういいぞ」

 佐吉が笑顔になった。

「ありがとう、ございやす」

 

 黒鷹精久郎と芥川行蔵は、日本堤を、ゆっくりと歩いていた。

 猪牙舟を見ながら、芥川行蔵が、言った。

「しかしなぁ……。

 平賀源内が吉原にいるとは、思いませんでしたよ」

「どこにいると思った?」

「老中の命を受けているんだから、てっきり、下屋敷と思いましたね。

 それとも、どこかの寺。

 まさか、吉原とは」

「”灯台 もと暗し”だな」

「しかも、名前が、酒池肉林」

「吉原に、似合うではないか。

 平賀源内なら、名乗りそうな名前だ」

「〈酒池肉林〉という名前は、聞いたことはありますよ。

 でも、信じられなかった。

 紀伊国屋文左衛門みたいな、伝説と、思っていました」

「吉原には、いろいろな伝説があるようだ」

「でも……。

 私の知る限り、平賀源内は、派手好きで、目立つのが好きな気質でした。

 よくもまあ、長いこと、隠れていられたものだ」

「大きな仕事のために身を隠す。

 小さいことで、派手に見栄を張るよりは、よほど、面白んだろうな」

「そうかもしれませんね」

 日本堤の土手八丁を通り過ぎると、吉原へ下がる、衣紋坂がある。

 見返り柳を左に見て、衣紋坂を進む。

 芥川行蔵は、面番所に詰める同心に、軽く会釈をした。

 二人は、大門を通り、吉原へ入った。

 仲の町を進む。

 京町二丁目の角に『海老屋』があった。

 芥川行蔵は、気軽に声をかけて、暖簾をくぐった。

「ごめんよ」

 知らせを受けていた『海老屋』の楼主が、正座していた。

「お待ちしておりました」

「目明しの二人は、どうした?」

「お休みになっております。

 御奉行所から、駆けどうしだったと推察いたしましたので、お休みいただいております」

「しっかりと、休ませてくれ。

 今日は、まだまだ、忙しい」

「かしこまりました」

「それで……これだ」

 芥川行蔵は、手紙を『海老屋』の楼主に渡した。

「拝見します」

 その手紙には、”松柏木”とだけ書いてあった。

 これで、老中直々の手紙であり、老中からの指図が何なのか、分かるのだ。

 『海老屋』の楼主は、納得して、頷いた。

「かしこまりました。

 どうぞ、こちらへ」

 黒鷹精久郎と芥川行蔵は、内所から奥へ入り、中庭へ出た。

 中庭には、瀟洒な家が建っていた。

「こちらでございます。

 先ほど、お二人が参られることを、お伝えしてございます」

  『海老屋』の楼主が去った。

 黒鷹精久郎と芥川行蔵は、顔を見合わせた。

 芥川行蔵が、言った。

「さあ、どうぞ。

 黒鷹さんが主、私は従ですよ」

「かたじけない」

 黒鷹精久郎が、「失礼する」と言いながら、玄関に入った。

 部屋の中は、道具で溢れていた。

 多くの三彩の陶磁器や絵画、「起電機」、「火淙布」、『物類品隲』などである。

 それに、多数の冊子が、うずたかくそびえている。

 平賀源内は、書き散らした紙の中に座っていた。

 平賀源内は、しっかりと太っていた。

 笑顔である。

 芥川行蔵は、心の中でつぶやいた。

「なんだか、大黒様みたいだな」

 黒鷹精久郎が、静かに、言った。

「平賀源内殿ですな?」

「昔はね。

 今は、酒池肉林ですわい」

「算号は、吾郎」

「ほほう、よくご存じ。

 御宅も算士なの?」

 黒鷹精久郎は、一部の隙もなく、しっかりと座り、お辞儀をした。

「お願いが、ございます」

「何ですか?

 まあ、手を上げて下さい。

 この酒池肉林、人に頭を下げてもらうほど、偉くはありません。

 それで……何ですか?」

「吾郎の算号を、譲っていただきたい」

「〈算士吾郎〉に、なにか、思い入れがあるのですかな?」

「拙者、昔、京にいるときに、算士吾郎と名乗っておりました。

 この度、江戸へ参りまして、〈算士吾郎〉の算額を見つけました。

 同じ算号の者が二人いるのは拙い。

 是非、お譲りください」

「なんだ、そんなことですか。

 わざわざ許可を求めることは、なかったのに」

「私は、筋を通します」

「そうですか。

 それでは、お譲りします。

 そこの同心の方を、請人としましょう。

 あなた、よろしいですか?」

 芥川行蔵は、頷いた。

 黒鷹精久郎は、頭を下げた。

「かたじけない。

 さっそくですが……」

 黒鷹精久郎は、刀を抜いた。

「この反り、どう思われますか?」

「ほほう……。

 あなた、いや、吾郎さん。

 良い所に目を付けられましたな」

「これ、扇の形、と見て……」

「待て、待て、楕円、ととらえれば……」

 芥川行蔵は、二人のやり取りを、ぼんやりと見ていた。



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