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第四部 算士吾郎 七

 次の日から、江戸の町は――、変わらなかった。

 いつも通りの生活が続いている。

 天下泰平。

 人々は、日々の生活を楽しんでいた。

 実は、江戸の町で変わったことがあった。

 彼らは気が付かなかったが、江戸の町の不審に対する奉行所の目が厳しくなっていたのだ。

 老中からの命で、無宿者、浪人の取り締まりが強化していた。

 与力、同心が動員され、目明し、小者が駆り出された。

 ただし、芥川行蔵は別である。

 町奉行から直々に、怪我治療に専念すべし、と沙汰があったのだ。

 そして十日後。

 黒鷹精久郎は芥川行蔵の屋敷へ行った。

「傷は、どうだ?」

「もう、大丈夫ですよ」

「では、始めるとするか」

「きっちりと仇討ちしてやる」

「仮名手本忠臣蔵か?」

「今、流行っているんですよ」


 元禄十四年のことである。

 江戸幕府は、恒例に従って、朝廷に礼使を送った。

 これに対し、恒例に従い、朝廷は、答礼の勅使を江戸へ差遣した。

 勅使に対する幕府供応馳走役の一人が、赤穂の浅野長矩であった。

 勅使供応に関する礼式、作法の指導は、高家の吉良義央があたった。

 ところが、勅使到着直前、浅野長矩は吉良義央に刃傷した。

 大事件である。

 即日、浅野長矩は切腹、所領は没収、となった。

 このような事例は、それまでにもあった。

 今回も、本人切腹・お家断絶、ということで決着すると思われた。

 ところが、なぜか、赤穂の浪士が仇討ちを計画している、という噂が立った。

 吉良義央と縁の深い上杉家の江戸家老、色部安長が調べてみると、浅野家の国家老、大石良雄が報復を計画している、と分かった。

 かくして、色部安長と大石良雄との頭脳戦が始まった。

 仇討ちできるか。

 それを阻止できるか。

 そして、元禄十五年、大石良雄たちの赤穂浪士が吉良義央の邸内に侵入して、彼の首級をあげて、浅野長矩の仇をはらした。

 世にいう赤穂事件である。

 驚いたのは幕府であった。

 赤穂浪士たちは、幕府の沙汰に弓を引いたのである。

 これは、看過できない。

 このままでは、幕府に対する体制誹謗に繋がってしまう。

 幕府は、事件直後に曽我兄弟の仇討ちに仮託して上演された芝居を、すぐに禁止した。

 そして、長いこと、演劇化の禁止を続けたのである。

 その後、五十年が経過し、関係者がすべて死亡し、赤穂事件の真相は確実に葬られた。

 幕府は、演劇化を、ようやく許可した。

 それが仮名手本忠臣蔵である。

 仮名手本忠臣蔵は、時代設定を足利幕府の世としていて、ストーリーは荒唐無稽なものである。

 しかし、君臣の忠義と人情の世話物というテーマは、人々の琴線を、大きく揺らした。

 仮名手本忠臣蔵は大ヒットした。

 この歌舞伎に関するエピソードが、数多く誕生した。

 その一つが沢村淀五郎である。

 浅野長矩は、仮名手本忠臣蔵では、塩冶判官という名前になっている。

 塩冶判官は、自分の命と領地を賭けて敵に斬りかかった。

 そして失敗し、切腹となる。

 万感の残念、遺恨、無念を胸に切腹するのである。

 この役は、最高の演技力がある演者でなければ務まらない。

 その力がある、と白羽の矢が立ったのが沢村淀五郎であった。

 しかし、失敗してしまう。

 なぜなんだろう。

 沢村淀五郎は、死ぬほど悩む。

 そして、ついに、演技に開眼するのであった。

 このエピソード自体、努力すれば成功する、という定番のテーマに合致しているのである。

 沢村淀五郎は名代となった。

 現在は、二世沢村淀五郎が、木挽町の江戸三座を背負っている。


 広敷番頭、中山敬信は、木挽町の二世沢村淀五郎の家を出ると、紀伊國橋へ向かって歩いていた。

 二世沢村淀五郎と、次回の仮名手本忠臣蔵の上演について、打ち合わせをしていたのである。

 打ち合わせ、というよりも強要である。

 見物に来る御殿女中たちの名前を教えて、その名前を台詞に組み込むように命じたのだ。

 御殿女中たちは、即興で名前を言ってくれたと思い、大喜びするであろう。

 このようにして御殿女中の機嫌を取り結ぶのも、中山敬信の知恵である。

 これで、中山敬信への賄賂も倍増する。

 もちろん、歌舞伎上演の利益の二割は、中山敬信がもらう。

 こういう用事のため、供も連れず、独りで二世沢村淀五郎の家を訪れたのである。

 そろそろ、利益の二割を、二割五分に引き上げるかな、と考えながら歩く。

 自ずと、顔が緩む。

 その時であった。

 道の前に、二人の侍が現れた。

 一人は、黒の紋付羽織に白衣。

 同心と分かる。

 半弓用の短い矢を弄んでいる。

 もう一人は、袖口の細い小袖に踏込袴。

 何者だか、よく分からない。

 懐手をしている。

 同心が、言った。

「あのう、中山敬信殿ですか」

「うん?」

 いきなり聞いてくるとは、無礼な奴、と思う。

「広敷番頭の中山敬信殿ですね?」

「いかにも」

「これは、御無礼しました。

 私は、同心の芥川行蔵。

 こちらは、黒鷹精久郎」

「黒鷹さんは、江戸に来たときは、きつかったんですよ。

 鬼の黒鷹精久郎。

 それが、江戸の水に馴染んで、柔らかくなりました。

 仏の黒鷹精久郎」

「一体、何のことだ?」

「貴殿のことですよ」

「どういうことだ?」

「黒鷹さんが、貴殿にも機会を与えるべきだ、と言うんです。

 以前の黒鷹さんなら、絶対に言わなかったと思いますね。

 仏になったんですな」

「機会?

 なんの機会だ?」

「隠居の機会」

「どうして隠居する必要がある」

「老中、松平定信を殺害しようしたことが表に出れば、切腹ですよ。

 その前に隠居すれば、穏便に済むかもしれない」

「なに」

「ねえ、隠居しませんか?」

「無礼者」

 中山敬信が、刀を抜こうとした。

 その瞬間、芥川行蔵が矢を、中山敬信の腕に刺した。

「あっ」

 黒鷹精久郎が、中山敬信を羽交い絞めにした。

 中山敬信の身体が崩れかかる。

 黒鷹精久郎が、中山敬信を背中に担いだ。

 二人は、紀伊國橋に用意していた舟に、中山敬信放り込んだ。

 舟には、目明しが二人、常吉と佐助が乗っていた。

 それに、長持がある。

 目明したちは、意識がない中山敬信を、長持に押し込んだ。

 芥川行蔵が、中山敬信の髻を切った。

 それを見ていた黒鷹精久郎が、芥川行蔵に言った。

「おい」

「なんです」

「仏の黒鷹精久郎、とはなんだ」

「即興で出たんですよ。

 中山敬信の顔を見たら、南蛮象狩を刺すだけじゃ、遺恨を消すには足りない、と思いましてね。

 すこし、嬲ってやろう。

 それで、即興の台詞」

「お主に、即興の台詞を述べる才があるとは、知らなかった」

「能ある鷹は爪を隠す。

 さあ、早くしましょう」

 目明したちは、長持を閉めた。

 芥川行蔵が、常吉に言った。

「お前、何も見なかったんだぞ」

「へえ、分かっておりやす」

 もう一人の目明し、佐助に、言った。

「お前、何も聞かなかったんだぞ」

「え、何か、おっしゃいましたか。

 最近、耳が遠くて、困っておりやす」

「よし、舟を出せ」

 芥川行蔵が、黒鷹精久郎に言った。

「さあて、吉原が待ってますよ」


 次の日、両国広小路の、料理屋『村山』の小僧が、店を開けると、店の前に長持が置かれているのを見つけた。

 知らせを聞いた番頭が長持を開けてみると、そこには、頭を丸められた侍が入っていた。

 鼾をかいて眠っているのだ。

 着物の紋から、広敷番頭中山敬信だと分かった。

 中山敬信が目を覚ましたのは二日後。

 中山敬信は、その日のうちに切腹させられた。

 くしくも、料理屋『村山』は、江島生島事件に関係する店であった。

 遠島を許されて江戸に戻った山村長太夫が開いた店なのだ。


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