第四部 算士吾郎 六
次の日、黒鷹精久郎は、さすがに落ち着かなかった。
事件が近づいている。
老中が襲撃、暗殺される。
それを防ぐためには、吉田吉次郎の情報が必要だ。
情報が探れるであろうか。
間に合うであろうか。
そして、一日が過ぎた。
次の日。
昼、吉田吉次郎が瑞竹寺へやって来た。
「分かったぞ」
「どう分かった?」
「明後日、老中は内藤新宿の十二社権現へ行く。
お忍びで。
間違いない」
「どうして分かる?」
「明後日は、一粒万倍日で天恩日だ」
「暦だな」
「そうだ。
老中は信心深い。
いつも暦を気にしている。
一粒万倍日で天恩日は強運の日なので、必ず参詣に行く。
方角からして、場所は十二社権現。
時刻は、未八ツ。
参詣に華美な行列は禁物。
だからお忍び。
まあ、こういうことだ」
「助かった、かたじけない」
「千両をばらまいて、大急ぎで調べた……。
というのは、嘘。
老中の行動は、十万石以上の家なら、どこでも知っている。
ただ、参詣のことは知っていたが、場所が分からなかった。
今朝、ある筋からの線で、十二社権現だと分かった」
「明後日……。
一日あるな……」
「老中を守るなら、手を貸そうか?
老中に恩を売るのも、悪くはない」
「よしておけ。
お忍びのところに萩家が現れたら、説明することになるぞ」
「それも、そうだな」
吉田吉次郎は、言葉を改めた。
「それで……千両のことだが……」
「どうした?」
「返そうか?」
「まあ、いいさ。
まだ、使うかもしれない。
それに……」
「それに?」
「そのうち、お主が千両を積み上げて、頼みにくることになるかもしれないぞ」
「そうなるかもしれないな」
その日の午後、黒鷹精久郎は内藤新宿へ行った。
大木戸を出て、十二社権現までを往復する。
大木戸に、いちばん近い旅籠に入った。
「二階の、道がよく見える部屋は空いているか?」
「はい、ございます」
黒鷹精久郎は、部屋へ入ると、手紙を書き、宿の主人を呼んだ。
「御用でございましょうか?」
黒鷹精久郎は、二朱金と手紙を出して、言った。
「この手紙を、昌平坂学問所の近くにある塚原道場へ届けてくれ」
次の日。
黒鷹精久郎は、道を見続けていた。
塚原千秋と吉野正太郎が道を歩いてくる。
塚原千秋は、細長い荷物を持っていた。
黒鷹精久郎が手を振り、二人を部屋へ呼び入れた。
「千秋殿、半弓は?」
「ここにあります。
矢は二十本ですが、どうですか?」
「足りないことは、ないだろう」
吉野正太郎が聞いた。
「私は、なにをすればいいんです?」
「斬れ」
「誰を?」
「今日、この道を、十二社権現へ向かう武士の駕籠が通る。
供侍は、おそらく十人。
十二社権現へ入るのは、未八ツ。
帰るのは、申七ツ。
往復のどちらかで襲われるはずだ。
吉野殿、貴公は、存分に斬れ。
千秋殿は、弓で倒せ」
吉野正太郎は、塚原千秋と顔を見合わせた。
吉野正太郎が、続けて、聞いた。
「襲う者の人数は?」
「分からない。
ここで道を見張っていて、それらしき者を数える。
貴公たちは、ここから十二社権現までの道を調べて、待ち伏せするとしたらどこか、調べて欲しい。
そして、それを待ち伏せする我々の場所も、見つけて欲しい」
塚原千秋が、苦笑いしながら、言った。
「黒鷹様は、もう、場所が分かっておいでなのでしょう?」
「まあな。
貴公たち、自ら、確かめて欲しい」
「それで……駕籠の主は、誰です?」
「老中松平定信」
塚原千秋と吉野正太郎は驚いた。
二人とも、萩家江戸家老、吉田吉次郎の肚座りには届いていないのである。
九ツ半、二人が戻って来た。
吉野正太郎が説明した。
「内藤新宿を抜けると、大名の下屋敷が並びます。
それと、調練場があります。
待ち伏せには、都合のよい場所です」
「我々が待機する場所は?」
「百姓家があります。
老婆が一人で住んでいます。
実は……それとなく、話を出しておきましたよ」
「よし」
「それで、何人くらいで襲撃すると思います?」
「私が数えたのは六人だ」
「そうすると、総勢、十五人くらいかな」
「どうしてだ?」
「駕籠が出るのが申七ツ、それまでには、あと五、六人は来ますよ」
「襲撃は帰り道、と思うのか?」
「はい。
帰り道で、気が緩んだときを襲うのでしょう」
「では、今のうちに、腹を満たしておくか」
そして、黒鷹精久郎たちは、襲撃を防いだのである。
黒鷹精久郎と老中は、松平範次郎の下屋敷の白書院へ入った。
部屋の外では、塚原千秋と吉野正太郎、それに供侍たちが警護している。
黒鷹精久郎が、これまでのいきさつを説明した。
老中松平定信が言った。
「儂が、今日、十二社権現に来るとは、誰から聞いたのだ?」
「権現様のお告げ、としておきましょう」
「そうか。
まあ、いいだろう。
先ほどの襲撃を、なかったことにしたのは、なぜだ?」
「老中が襲われた、となれば大騒ぎになります。
しかも、老中は、密かに朱引内を離れていた。
これはどういうことだ、と噂が飛び交います。
御老中の敵の勢力は、一気に、優勢」
「そうだろうな。
襲撃がなければ、敵は、疑心暗鬼のまま。
その間に、儂は手が打てる」
「ところで、その、敵は誰です?」
「敵は多い」
「敵の中でも、いま手を打たれれば、いちばん損害が大きい者。
かなり焦っている者。
おそらく、大奥関係」
「お主、鋭いな。
襲撃の黒幕は中山敬信だろう」
「誰?」
「二千石、旗本、広敷番頭だ」
「広敷番頭なら、大奥と指呼の間だ」
「大奥は、水戸家と繋がりが深い」
「絵島事件の頃からですね?」
「それより、さらに前からだ。
中山敬信は、水戸家の係累に当たる」
「水戸家の繋がりで、広敷番頭なれた。
そして、大奥と御用商人、双方からの付け届けで、懐は肥えたけれど……」
「……儂が大奥の費えを三分の一にしたので、付け届けはなくなった」
「中山敬信は激怒」
「そういうことだ」
「そこまで分かっていて、手を打たなかったのですか?」
「やろうとしていたところだ。
先に、手を打たれた」
「しかし、先手必勝ではなかった」
「さよう。
葵の雷を落としてやる」
「その必要はないでしょう」
「なぜ?」
「その中山敬信、近いうちに亡くなりますよ」
「ほほう、それは残念だな」
「一つ、質問があるのですが?」
「なんだ?」
「算士吾郎、つまりは平賀源内の居場所」




