第四部 算士吾郎 五
黒鷹精久郎は、山下門で堀を渡り、萩家上屋敷へ行った。
萩三十六万石の上屋敷である。
表門は堂々としていて、両側に番所がある。
黒鷹精久郎は、番所に声をかけた。
「家老、吉田吉次郎はいるかな?
黒鷹精久郎が来た、と伝えてくれ」
黒鷹精久郎が通されたのは、奥庭にある風雅な茶室であった。
吉田吉次郎が、先に来て待っていた。
脇には小姓が控えている。
黒鷹精久郎が座ると、吉田吉次郎が、小姓に言った。
「外で待て」
そして、黒鷹精久郎に向き直った。
「いきなり上屋敷へ来た。
町屋が探せなかったのか?
それとも、急なことかな」
「ああ、時間が惜しい」
「今度は、何の用だ?」
「ここのところの空気を、どう見る?」
「空気?」
「”山雨、来たらんと欲して、風、楼に満つ”」
「騒乱が近い気がするのだな」
「さよう。
機が熟している」
「拙者も、それは感じていた」
「やはりな……」
「待て、待て。
まさか、萩家が、いよいよ徳川に弓を引く気になった、と思ったのか?」
「まだ時期尚早だろう」
「では、何の騒乱だ?
お主、分かっているようだな」
「御家老、いつぞや、百両を出して、使ってくれ、と言ったな」
「申した」
「あの百両が欲しい」
「ほほう……拙者のために動く気になったのか」
「どうかな」
「まあ、よい」
吉田吉次郎は、小姓を呼び寄せて、百両を持ってこさせた。
百両を、畳に置き、黒鷹精久郎の前に押した。
黒鷹精久郎は、百両を、吉田吉次郎の前に押し返した。
「この百両で、頼みがある」
「どういう頼みだ?」
「老中松平定信のことが知りたい」
さすがに江戸家老、吉田吉次郎である。
眉一つ動かさずに聞いた。
「なにを知りたい?」
「老中が外出する予定と、その場所。
とくに……忍びのような外出だ」
「忍びの外出なら、警護が手薄だ。
お主、そこを襲うのか?
いや、違うな。
そこを襲撃される、ということだな」
「おそらく、襲撃される、と思う」
「だが、忍びの外出なら、秘密だぞ」
「だが、知っているだろう。
少なくとも探ることができる。
それができなくては、江戸家老は勤まらない」
「それを探るのに百両か。
安すぎる」
「分かっている。
その百両は、手付料だ。
吉野天満宮の信用で、三井から千両までは借りられる。
今、手紙を書くから、硯を筆を出してくれ」




