第四部 算士吾郎 四
黒鷹精久郎が説明した。
「いつぞや、塚原千秋殿の試合で松平肥後守の屋敷にいたとき、お主、算士吾郎の名前を聞いて、すこし狼狽えたろう。
どうしてなのか、気になっていたのだが、算術と算士吾郎を調べていて分かった」
芥川行蔵が、皮肉な顔つきで、言った。
「どう、分かりました?」
「当代、算術の名人と言えるのは、伊能忠敬と平賀源内だ。
伊能忠敬は、暦に夢中になっていて、算術のことは疎かになっている。
自慢して算額を掲げるという性格でもないようだ」
「残るのは、平賀源内ですな」
「そうだ」
「でも、平賀源内は、十年くらい前に死んでいますよ」
「そうだ」
「でも?」
「そうだ。
でも、死んでいなかったら? と考えた。
江戸へ出てきたとき、日吉山王大権現で真新しい算額を見た。
掲げてから十年は経っていない。
つい最近、架けられたものだ。
算額の内容は、かなり難しいものだった。
伊能忠敬か平賀源内くらいの力量がなければ書けないものだ」
「そして、伊能忠敬を除けば、残っているのは平賀源内」
「そうだ、だから、平賀源内は生きている、と考えた。
平賀源内が、死亡した、とされているのは、田沼意次の時代だろう?」
「そうですよ」
「田沼意次の筋から、平賀源内は死亡したことにしろ、と命令された」
「そんなことをして、なにか得があるのですか?」
「平賀源内に、密かに米相場をさせるのさ。
平賀源内の才能なら、本間宗久や牛田権三郎に勝るとも劣らないだろう」
「田沼様は失脚しましたよ」
「平賀源内の相場の腕を、老中松平定信が引き継いだのだ」
「そうですね。
老中は交換できるけれど、相場の腕は交換できない」
「平賀源内が人を殺したことにして、密かに姿を消させる……。
これをするためには、奉行所の力が必要だ」
「でも、奉行所、全体が関われば、すぐに話は洩れますね」
「そうだ。
ごく一部の者しか知らないはずだ。
お主が、その一部の一人だろう?」
「いやぁ、見事です。
その通り」
「それで、今、平賀源内はどこにいる?」
「知りませんよ」
「うん?」
「あの当時、私は、まだ下っ端でした。
平賀源内死亡の工作に加わりましたけれど、詳しいことは知りません。
あの工作に関わったのは、おそらく……同心二人、与力一人、そして、牢屋奉行、江戸町奉行……このくらいだと思いますね。
そのうちの誰と誰、ということは分かりません。
もう、死んでいる者もいると思いますね。
私も、死ぬかもしれない」
「そうだろうな」
「確実に知っているのは、老中松平様でしょうね」
「それでは、老中に聞くか」
「教えてくれないでしょう?」
「今の騒乱の空気のことを伝えれば、教えてくれるさ」




