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第四部 算士吾郎 三

「命に別状はありやせんが、腹を斬られて……」

「今、どこにいる?」

「お家に。

 俺たちが運びやした。

 奉行所に届けた後、先生に知らせようとして……。

 ちょうど出会えて、よかった」

「よし、八丁堀へ行く。

 ついてこい」

「あっ、それ、勘弁」

「どうした?」

「この足で、不忍池へ飛びます。

 今日は大忙し。

 面倒になっているのは、芥川の旦那だけじゃないんで……。

 それじゃぁ、御免なすって」

 常吉は駆けていった。


 芥川行蔵は、庭に面した部屋に寝ていた。

「わざわざ、来てくれましたか。

 お礼を言いますが、単なる見舞いじゃないんでしょう?

 それくらい分かりますよ。

 どういうことですか」

「その話は、後にする。

 それより、何があったんだ?」

「待ち伏せされたんです。

 青山善光寺の門前町の家に不審な浪人たちが集まっている、という知らせがありまして……

 小者二人と一緒に駆け付けたところ、四人の浪人が待ち伏せていました。

 一人は倒したのですが、私も斬られました。

 帯に刺していた十手のおかげで、深手になりませんでした」

「そうだと思うか?」

「さすがですな。

 刀が十手に当たったのは偶然ですが、私を殺す気はなかったと思いますね」 

「江戸の町を騒乱させればよい、というだけ」

「私も、同じ読みですよ。

 誰かが、どこかで、騒乱を企ている気がしますね。

 このところ、何かがおかしい、という気が、ずっとしてしています。

 もうすぐ、何かが爆発しそうですよ」

「爆発するのは、不満があるからだ」

「そうでしょうね」

「何が不満だ?」

「ご政道」

 黒鷹精久郎は、頷いた。

 芥川行蔵は、莞爾として笑い、続けた。

「同心の私が言うのはまずいですがね。

 田沼様から松平様へ移ってから、人々の不満が溜まっている。

 そろそろ、危ないですよね」

 

 この時代、後世、寛政の改革と呼ばれることになる政治改革が進行中であった。

 前の時代までで江戸幕府の経済は疲弊していた。

 そこで、先の老中、田沼意次は、貿易振興、新田開発、蝦夷地開発など、新しい経済政策を打ち出した。

 イノベーションである。

 だが、あまりにも革新的であったため、多くの人が付いて行けず、頭の固い人々の反感を買い、頓挫した。

 田沼意次は失脚。

 そして登場したのが老中松平定信である。

 松平定信は、田沼意次のイノベーションを壊し、旧弊の政策に戻した。

 緊縮財政で倹約を履行し、農民の土地への緊縛を強め、思想面でも朱子学の新興を計画した。

 あまりにも強い締め付けのため、怨嗟の声が満ちることになったのである。


「いちばん不満に思っているのは誰だろう?」

 黒鷹精久郎が聞いた。

 この辺りのことは、黒鷹精久郎は疎いのである。

 芥川行蔵の方が、はるかに詳しい。

 芥川行蔵が即答した。

「大奥」

「そうか……」

「大奥の費えが三分の一に減らされました。

 大奥は激怒です。

 大奥が、近しい大名に耳打ちして、江戸を混乱させ、老中を失脚させる。

 まあ、こういう図を描いていると思いますね」

「その大名とは、どの家だ?」

「さあ、それがよく分かりません。

 すぐ思い付くのは、西国の家……」

「関ケ原以来の怨念か?

 古すぎるだろう」

「人は、恨みを忘れませんよ。

 私も、今度のことは、忘れないです」

「西国以外では、どうだ?」

「尾張……あるいは、水戸……」

「どうしてだ」

「大奥といえば、すぐに思い付きますよ」


 正徳四年(一七一四)のことである。

 六代将軍、徳川家宣の側室で、七代将軍徳川家継の生母である月光院付きの奥女中、年寄、絵島が歌舞伎役者の生島と情通した。

 大奥の警備や事務を担当する武士たちは広敷向に詰めていたのだが、大奥からの賄賂により、規律が緩んでいた。

 そのため、大奥内での情通が可能になったのである。

 絵島は、歌舞伎役者の生島新五郎を、長持に忍ばせて大奥へ導き入れた。

 大奥を警護する広敷番は、見て見ぬふりをしていた。

 ところが、これが表沙汰になり、大事件となったのである。

 その結果――。

 奥女中の絵島は、信濃高遠に幽閉。

 歌舞伎役者の生島は、三宅島へ流罪。

 歌舞伎を上演した山村座は、解散。

 山村座の座元、山村長太夫は、伊豆大島へ流罪。

 その他、合計、千五百人が処罰されたのである。

 さらに、大奥の綱紀粛正が断行された。

 

「この事件のとき、大奥の広敷向に詰めていたのが武士たちが、水戸だったのです」

「なるほど」

「ところがですね」


 絵島は冤罪である、という説がささやかれていた。

 月光院は、次代の将軍として、尾張の継友を推していた。

 一方、徳川家宣の正室である天英院は、紀州の吉宗を次期将軍に、と推していたのだ。

 月光院一派を追い落とすために、天英院一派が仕掛けた罠が、江島生島事件である、という説である。


「つまり、権力争いか」

「はい、よくある話です」

「争いに勝つために、絵島事件を捏造した……」

「将軍になられたのは吉宗公です」

「負けた尾張は、その恨みを忘れない……」

「有名な話ですよ」

 黒鷹精久郎は、黙って、考えていた。

「大奥はともかく、黒鷹さん」

「何だ?」

「ここへ来た理由を教えてください。

 単なる見舞いじゃ、ないんでしょう?」

「そうだ。

 聞きたいことがある。

 お主が死んだら、手がかりがなくなる」

「相変わらず非情ですね。

 魚心あれば、水心あり、と言いますよ」

「何か、欲しいものがあるのか?」

「尼子秘帳、と言いたいけれど、今は、別に欲しいものがあります」

「何が欲しい?」

「助太刀です。

 普段なら頼まないけど、怪我をしたので、仕方ありませんわ。

 私が戦うとき、周囲の雑草を刈って下さい」

「心得た」

「それで、何が知りたいのですか?」

「算士吾郎、つまりは平賀源内の居場所」




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