第四部 算士吾郎 二
黒鷹精久郎は、日吉山王大権現を出ると、昌平坂学問所近くの塚原道場へ行った。
「あっ、これは、先生」
塚原千秋が、笑顔で出迎えた。
「吉野正太郎殿は、おいでかな?」
「はい、今、お呼びします」
塚原千秋と真剣勝負をした後、吉野正太郎は塚原道場で稽古をするようになった。
二人とも、真剣で稽古をするのだ。
見切りである。
一歩間違えれば死ぬことになる。
黒鷹精久郎が塚原道場へ立ち寄ったときには、二人に助言をすることもあった。
それだけである。
黒鷹精久郎は刀を抜かない。
黒鷹精久郎が刀を抜くのは、使う時だけである。
黒鷹精久郎は、奥向きの客室へ通された。
吉野正太郎が現れた。
「先生、お呼び出しにあずかり……」
「固い挨拶はいい。
それより、聞きたいことがある」
「何でしょうか」
「お主は、出羽佐竹家だな?」
「はい」
「本間宗久を知っているな」
「ええ、もちろんです」
本間宗久は、出羽佐竹出身の相場師である。
そもそもは、酒田で父親の店の経営を任されていた。
それだけに飽き足らず、相場をして巨万の富を得た。
天才的な相場勘があったのだ。
しかし、甥と対立して江戸へ出る。
そして江戸でも大儲け――、とはならなかった。
なぜか、失敗してしまう。
失意の中で郷里に戻った本間宗久は、座禅をして原因を探った。
見つけた答えが”非風非幡”である。
こういうことだ。
風の中で幡が動いている。
これは、幡が動いているのか。
それとも、風が動いているのか。
答えは、見ている人の心が動いている、だ。
欲が出れば心が動く。
心が動けば相場には負ける。
不動心。
大きな金が動く相場では、とりわけ不動心が大切なのだ。
本間宗久は、米相場の堂島へ行き、捲土重来を期した。
そして、連戦連勝したのである。
堂島で牛田権三郎と知り合った。
本間宗久は”非風非幡”なのだが、牛田権三郎は”見猿・聞猿・言猿”であった。
本間宗久は、五十歳になったときに江戸に居を構え、米相場に邁進した。
出羽佐竹家は、本間宗久に助けられている。
吉野正太郎が、本間宗久のことを知らないはずはない。
「本間宗久は、今、どこに住んでいる?」
「下谷七軒町です」
「三味線堀の近くだな」
「はい。
浅草御蔵の近くです。
そして、家の上屋敷にも近い。
万一のときは、家の者が駆けつけることになっています」
「そうだな」
黒鷹精久郎は、心の中で苦笑いした。
本間宗久が住むとしたら、佐竹家と相場所との双方に近い家に違いないではないか。
黒鷹精久郎は、武士のことはよく分かるが、相場と相場師のことは無知であった。
「本間さんを訪ねるつもりですか?」
「ああ」
「それなら、明日、私が案内します」
「住所を教えてくれれば、それでよい」
「本間さんの家は、お家の侍たちが見張っていますよ」
「怖くはない」
「私が心配しているのは、お家の侍たちです」
次の日、黒鷹精久郎は本間宗久と会った。
本間宗久は、白髪の小男であった。
温厚な顔をしているが、入札に立った時は、顔付きが一変するであろう。
紺色の結城紬の着流しに、薄茶の帯が、よく似合っている。
見事な手前で茶を立てて、黒鷹精久郎の前に置いた。
「いただきます」
黒鷹精久郎は、茶を喫してから、質問をした。
「平賀源内をご存知か?」
「ほう……久しぶりに聞く名前ですな」
「平賀源内は、確か……安永二年に、出羽へ行っています。
そこで、会ったことは?」
「会っていますよ。
溢れるような才能を持った男でした。
うらやましかった。
私は、相場のことしか分かりませんから」
「平賀源内が相場をやったとしたら、成功しただろうか?」
「どうでしょうかね。
平賀源内には、落ち着きがなかった。
あれでは、成功は無理でしょう」
「非風非幡の不動心?」
「はい」
「話は変わるが。
今、江戸で、突出した相場師はいるだろうか?」
「いると思いますね」
「誰?」
「名前は分かりません。
ただ、米相場の動きを見ていると、誰か、いることは分かります」
「天才的?」
「はい」
本間宗久が、静かに聞いた。
「平賀源内が生きていて、相場を張っている、とお思いですか」
「先ず、間違いない」
「生きているなら、会ってみたいものです……」
本間宗久の家を出た黒鷹精久郎は、堀に沿って歩き、湯島の聖堂から瑞竹寺を目指した。
分かりやすい道筋である。
周囲が開けているから、不意を突かれる心配はない。
黒鷹精久郎が歩くなら、当然といえる道筋だ。
しかし。
今は違う。
今は、江戸の町が何かおかしくなっている、と感じているのだ。
それを肌で確かめるため、町中の道を歩くべきであった。
黒鷹精久郎は、そう思っていた。
しかし、である。
なぜか、堀にそう道を選んだ。
感、というものであろう。
感が的中した。
後ろから声がした。
「せ、先生、黒鷹精久郎先生」
振り向くと、目明しの常吉が駆けてくる。
「よかった、いい所で、出会いました」
「どうした?」
「旦那が、芥川行蔵旦那が斬られました」
「何」




