第三部 阿吽仁王 三
黒鷹精久郎は、道成寺流楠山真伝斎を訪ねて、下総へ向かっていた。
両国橋を渡って、本所へ出る。
竪川に沿って進む。
逆井の渡しで中川を越え、小松川村へ入る。
黒鷹精久郎が小松川村へ入った、ちょうどその頃。
一人の武士が、六本木赤坂の溜池沿いの道を歩いていた。
信濃国堀家の侍、大樹勇造である。
溜池沿いの道は、木が生い茂り、昼でも薄暗い。
後ろから、足音が近づいてきた。
大樹勇造は、はて、と思った。
振り向こうとしたとき、背中を斬られた。
大樹勇造は即死した。
黒鷹精久郎は、小松川村から、さらに東へ進み、利根の渡しで利根川を越えた。
そして、下総国市川真間に入った。
晩秋の日が、そろそろ落ちかかっている。
弘法寺を通り越して、しばらく進むと、そこが浅茅村であった。
周囲は、田圃を裂くようにして小川が多い。
また、小高い丘もいくつかあり、見通しを遮っている。
本多道場の本多万太郎の話では、市川真間浅茅村に道成寺流楠山真伝斎が隠棲している、ということであった。
浅茅村のどこか、までは、むろん分からない。
黒鷹精久郎が歩いていくと、雑木林の陰から、屋敷が見えてきた。
在所の豪農の家、という佇まいである。
都合のよいことに、門の前で、数人の男が集まっていた。
豪農の主人が、作人に何かの指示を与えているようである。
黒鷹精久郎は、近寄って行った。
豪農の主人とおぼしき男に聞いた。
「ちと、尋ねたいが」
「はい、何でございましょうか」
答えた男は、初老で、がっしりとした体格であった。
豪農の主人の、風格、貫禄を備えている。
黒鷹精久郎が言った。
「このあたりに、楠山真伝斎という者が住んでいる、と聞いたのだが」
「ああ、楠山先生でございますね。存じております」
「どこであろうか」
豪農の主人は、道の先を指さして、言った。
「あそこの林の向こうに、継橋がございます。
そこを渡った先の農家でございます」
「かたじけない」
黒鷹精久郎は、林を回り込み、継橋を渡った。
砂州に囲まれて、古い農家が見えてきた。
夕焼けの空が赤い。
黒鷹精久郎は農家へと近寄って行った。
農家の前の庭で、一人の老人が薪割りをしていた。
体格がいい。
粗末な服装である。
総髪の髪は白い。
かなりの年齢であろう。
土地の老百姓と見える姿形であった。
黒鷹精久郎は、歩を止めた。
斧が飛んできたら避けるのが難しい、と思ったのである。
老人は、まるで大根を切るように、斧で薪を割っている。
ただの百姓に出来る技ではない。
かなりの武技を持った者だけがなせる技である。
姿形は老百姓だが、そうではないのだ。
用心しなければならない。
老人との間合いを、充分にとっておく必要がある。
老人が、黒鷹精久郎を見た。
黒鷹精久郎が言った。
「率爾ながら、楠山真伝斎殿とお見受けいたします」
「そうじゃが?」
「私、黒鷹精久郎と申します。
楠山先生に、一手、教えを乞いたいと思い、参上しました」
「教えを乞う?
何の教えかな?」
「道成寺流」
楠山真伝斎は、笑って、言った。
「剣術か。
もう、忘れたわい」
楠山真伝斎は、空を見上げ、言った。
「そろそろ日も暮れる。
ま、来たまえ。
酒でも、進ぜようか」
黒鷹精久郎と楠山真伝斎は、囲炉裏を挟んで座った。
もちろん、黒鷹精久郎は、座る前に部屋を見回した。
ただ一つを除いて、変哲もない囲炉裏のある部屋である。
その一つとは。
部屋の隅に神棚があるのだ。
神棚には、鹿島大神宮と香取大明神の神名札が掛けてある。
それらの神名札に挟まれて、達磨を描いた掛け軸が掛けてある。
神棚の前には、白鞘の大刀が架けてある。
三尺二寸ほど。
反りが美しい。
鞘に収まった姿から刀身の凄味が感じられる。
阿仁王丸なのであろう。
黒鷹精久郎は、大刀を左に置いて、座った。
楠山真伝斎が聞いた。
「酒を、どうかな?」
「酒は飲みません」
「そうか、では、勝手にやらせて貰うぞ」
楠山真伝斎は、手酌で飲み始めた。
楠山真伝斎は、飲みながら、聞いた。
「貴公は、剣術をやるのかな?」
「いささか」
「辞めた方がよいぞ」
「は?」
「剣術の腕を磨いて、どうするのじゃ」
黒鷹精久郎は、何も言わない。
「せいぜい、人を斬るだけじゃ。
つまらんとは、思わんかの?」
黒鷹精久郎は、何も言わない。
「剣は、人を斬るものではなく、人を活かすためのものなのじゃ」
黒鷹精久郎は、何も言わない。
「しかし、のう。
人を活かすなら、剣では駄目じゃ。
禅じゃよ、禅」
黒鷹精久郎は、これは駄目だ、と思った。
剣に生涯を殉じた達人は、老年になり、妙な悟りをする者が多い。
殺人剣を越えて活人剣の光明を見た、と悟るのである。
そして、座禅を組んだりする。
座禅を組むだけならまだしも、若い者を説教する老人たちも多い。
技に頼っているうちは、本当の剣は身に付かないぞ、といった説教である。
黒鷹精久郎は、これらの事を、莫迦莫迦しい、と思っていた。
剣は敵を斬るためにある。
敵を斬り、自分が生きるためには、敵よりも技術が優れていなければならない。
これしかないではないか。
黒鷹精久郎の眼から見て、確かに、楠山真伝斎の剣技が凄いのは、分かる。
若い頃は、かなりの使い手であったであろう。
だが、もう駄目だ、と黒鷹精久郎は思った。
老人になり、人を活かすとか、禅とか説教をするようになっては駄目である。
確かに、禅は凄いものであろう。
だがそれは、黒鷹精久郎にとっては、無縁な存在なのだ。
楠山真伝斎は、神棚を指さして、言った。
「あの達磨の絵は、白隠禅師から頂いたものじゃ。禅の全てが、あれにある」
黒鷹精久郎が、皮肉を込めて、聞いた。
「鹿島大神宮、香取大明神の神名札と、刀がありますが」
「剣の師匠の形見じゃ。
あれが捨てられないようでは、まだ、禅の修行が足りん、と慚愧しておる」
「あの刀は、阿仁王丸ですか?」
「さよう。
越中呉服郷郁正作の名刀。
昔、奥山一伝斎が、明智光秀から賜った、と聞いておる」
「ほほう」
「本能寺で織田信長を倒し、天下を盗ったときのことじゃ。
祝賀に来た奥山一伝斎に、明智光秀が、手ずから渡したそうじゃ」
「奥山一伝斎とは、確か、道成寺流の?」
「さよう、あの当時の達人じゃ。
道成寺流の長い歴史の中でも、最も強かったろうな」
「その奥山一伝斎と明智光秀に、関係があるのですか?」
「織田信長が比叡山を焼き討ちしたのを知っておるか」
「ええ」
「あの折、奥山一伝斎は、比叡山に招かれていての。
それで、焼き討ちに巻き込まれたのじゃ」
黒鷹精久郎は、先を、待った。
「明智光秀は、ああいう男じゃ。
自分の陣営に逃れてきた者たちを何人か、逃がしてやった」
「その中に、奥山一伝斎もいた?」
「そうだ」
「それを、奥山一伝斎は、恩として深く感じていたので、明智光秀が天下を盗ったとき、真っ先に、祝賀に駆けつけた?」
「明智光秀も嬉しかったのだろうな。
本能寺で見つけた阿仁王丸を渡したのじゃ」
「そうですか」
「それ以来、阿仁王丸は、道成寺流に受け継がれておる」
黒鷹精久郎は、次を、待った。
だが、楠山真伝斎は、別なことを、言った。
「いかん、いかんのう。
まだ、剣に囚われておる。
禅の修行が足りんわい。
いいかね、お若いの。
見猿、聞猿、言猿、をご存知か」
「知りません」
「禅の真髄じゃよ。
見ざる、見ても心を動かすな。
聞かざる、聞いても心を動かすな。
言わざる、下手に話せば心が動く」
「つまり……不動心」
剣客ならば、不動心のことは誰でも知っている。
今さら、講釈される必要はない、と黒鷹精久郎は思った。
楠山真伝斎が、続けた。
「これを教えてくれたのは剣客ではない。
堂島の相場師じゃよ。
牛田権三郎という名前で……」
楠山真伝斎は、言葉を、止めた。
楠山真伝斎の眼が光った。
黒鷹精久郎は大刀を握った。
家の外に、何か、気配があるのだ。
木が爆ぜる音がした。
煙が入ってくる。
この家に火を放たれたようだ。
楠山真伝斎は、立ち上がりながら、言った。
「お主、どうも、不運な時に居合わせたようじゃの」
黒鷹精久郎が言った。
「心当たりが、おありか?」
「まあな。
昔、倒した者の敵討ちか、あるいは阿仁王丸を狙っておるのじゃろう」
楠山真伝斎は押入の襖を開いた。
押入の奥から大刀を取り出す。
楠山真伝斎は、大刀を腰に差し、言った。
「ふりかかる火の粉は、払わねばならん。
貴公は、どうする?」
「火の粉を払います」
「貴公なら出来よう」
楠山真伝斎は、土間を指さして、言った。
「そこに裏戸がある。
では」
楠山真伝斎は、玄関から飛び出ていった。
黒鷹精久郎は驚いた。
楠山真伝斎の動きは、まさに、剣の奥義を究めた者の、それであった。
もちろん、感嘆している場合ではない。
黒鷹精久郎は、煙の充満する土間へ降り、裏戸を蹴破った。
外に飛び出る。
二本の矢が、黒鷹精久郎に刺さった。
一本は右肩。
一本は左脇腹。
黒鷹精久郎の着る小袖は、普通の小袖よりも厚い。
しかも、厚い裏もついている。
生半の矢は通さない。
強弓で射った矢なら通すであろうが、それでも威力は削がれる。
黒鷹精久郎は、矢が、肌を刺したことを感じた。
それくらいなら、何ほどのこともない。
斬り合いに支障はない。
支障がない、はずであった。
しかし。
黒鷹精久郎は、身体が痺れた。
手が動かない。
腹に、石が巻かれたような感じだ。
足が出ない。
黒鷹精久郎は、その場に倒れた。
身体は痺れているが、まだ、耳は聞こえる。
黒鷹精久郎は、いくつかの声を聞いた。
「倒れたぞ」
「よし、入れ」
「誰だ、こいつは?」
「客だろう」
「不運な奴だ」
「こいつは、どうする?」
「止めを刺すか?」
「放っておけ」
「どうせ、毒で死ぬ」
「目的は阿仁王丸だ」
「捜せ」
「どうだ?」
「あるか?」
「先生、村人が来ます」
「早くしろ」
「見つけたか?」
「先生、ありました」
「よし、引き上げろ」
黒鷹精久郎は、足音を数えた。
六人、いや、七人だ。
耳が、聞こえなくなってきた。
眼が、暗くなってきた。
煙が這い回っている。
だが、鼻は痺れている。
燃える家が、黒鷹精久郎の上に、落ちてきた。
しかし、身体が痺れていて、何も感じない。
遠ざかる意識の中で、黒鷹精久郎は、思った。
私に止めを刺さなかったとは、あいつらの、大きな誤りだ。
そして、意識が無くなった。




