第一部 尼子秘帳 二
黒鷹精久郎は、大木戸札の辻を通り、江戸へ入った。
芝橋を渡り、さらに金杉橋を渡って、浜松町を進む。
そして、左に曲がり、増上寺へ向かう。
五重塔を目印にして、増上寺を回り込む。
増上寺の裏手、金地院の前は、雑木林と野原であった。
ここの野原が、決闘の場所なのである。
黒鷹精久郎は、空を見上げた。
空は、一面の黒雲に覆われている。
太陽で時間を読むことができない。
黒鷹精久郎は、待った。
二人の武士が現れた。
若い方の武士、大山新八郎は、黒鷹精久郎を見ると、襷がけをした。
試合の準備である。
黒鷹精久郎は、大山新八郎と目を合わせた後、年輩の武士を見た。
年輩の方の武士、塚原駿郎は、黒鷹精久郎に言った。
「刻限より早く来る……。相変わらずだな、黒鷹精久郎」
黒鷹精久郎は、黙ったまま、頷いた。
そして、大山新八郎の方を向く。
大山新八郎が、言った。
「試合の用意を」
「このままでいい」
「何?」
「常在戦場と心得ている」
「そうだな、おぬしは……。では……、まいる――」
大山新八郎は、刀を抜き、中段に構えた。
黒鷹精久郎は、鯉口を切り、一歩下がった。
にらみ合いが続く。
空は、一面の黒雲となり、風が強くなった。
二人はにらみ合ったままである。
にらみ合いが続く――。
大山新八郎が仕掛けた。
切っ先を揺らし、踏み込む。
黒鷹精久郎も踏み込んだ。
腰を回し、抜いた刀は、大山新八郎の腕を斬っていた。
「あっ」
さらに踏み込んで、刀を横に払う。
大山新八郎は、その場に倒れた。
塚原駿郎は、呆然として、倒れた大山新八郎を見ている。
黒鷹精久郎は、刀身を拭い、鞘に収めた。
黒鷹精久郎は、何もなかったような、静かな声で言った。
「では、約束のものを、明日、受け取りにまいります」
塚原駿郎は、呆然としていたが、気を取り直して、黒鷹精久郎をみた。
黒鷹精久郎は、倒した大山新八郎を見て、塚原駿郎に目を戻した。
決闘に負けて驚いている相手に、すぐに「明日」では、さすがに気が引けた。
明日は、葬儀で忙しいだろう。
「明後日にいたしましょう。それでは」
黒鷹精久郎は、歩き始めた。
塚原駿郎は、呆然としたままであった。
道場の剣術と実戦の違いを、見せつけられたのであった。
黒鷹精久郎は、野原から道に出たところで、ふと、立ち止まった。
何かが……。
いや、それとも、気のせいか。
雨が降り始めた。
黒鷹精久郎は、足を速めた。
木戸が閉まる前に、宿を探さなくてはならない。
本郷小石川の、根津権現と白山権現を結ぶ道筋には、寺が多い。
その道筋の中間あたり、大田備中守下屋敷の近くに瑞竹寺がある。
大山新八郎を斬った、次の日。
黒鷹精久郎が瑞竹寺に着いたのは、辰一ツころであった。
宿で道を聞き、道筋を確認しながら来たのである。
出来るだけ早く絵図を買い、江戸の地理を覚えなければならない。
名前の通り、瑞竹寺の庭には竹が配してあり、寺の裏手は竹藪になっている。
この寺の離れ座敷に、寺の円仁和尚が入ってきた。
その後ろから、黒鷹精久郎が続く。
円仁和尚は、障子を開けた。
裏手の庭の細道から、彼方の竹藪が見える。
「ここですが、如何かな?」
黒鷹精久郎は、十分すぎる部屋だ、という顔つきで頷いた。
「よかった……。他に何か……」
「二つ」
「はい?」
「江戸の絵図を拝借したい。すぐに買うつもりですが、それまでの間」
「私が持っているのをお貸ししよう」
「それと、食事ですが……」
「心配なさるな。酒ですな。心得ておりますわい」
「そうではありません。食事は玄米をお願いしたい」
「江戸へ来て玄米?」
「もしご面倒なら、私が作ります。それに、生味噌があれば、それで結構」
「ふうん……」
円仁和尚は、皮肉な口調で続けた。
「剣術修行も大変ですのう……」
その日の昼過ぎまで、黒鷹精久郎は、絵図を見続けた。
江戸の地理を頭に叩き込む。
午後は、江戸の町を歩き回った。
外堀を作っている川沿いに、江戸の町を一周した。
これで、一日が終わった。




