表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/35

第三部 阿吽仁王 二

 雑司ヶ谷音羽町の本多道場の見所に、黒鷹精久郎は、大人しく座っていた。

 稽古を見学している五人のうちの一人として、座っているのである。

 道場では、師範代の後藤寅三郎が門弟たちに稽古をつけていた。

 容赦なく打ち据える厳しい指導であった。

 門弟たちは恐れおののいている。

 稽古を見学している五人のうちの四人も、驚いていた。

 ただ一人、黒鷹精久郎だけは、退屈していた。


 黒鷹精久郎が江戸にいる理由は、剣術の強者を捜すためである。

 剣術の修行は、深山幽谷に限る、という通念がある。

 黒鷹精久郎も、そういう考えに囚われていた。

 この考えを守り、山の中で烈しい修行を続けていたのである。

 だが、山を下りる必要が出て来た。

 真剣勝負の試合をする約束があったのだ。

 その約束を果たすために江戸へ出て来た。

 真剣勝負の試合は見事に勝った。

 約束を果たしたのだから、また、深山幽谷へ戻っても、差し支えなかった。

 だが、黒鷹精久郎は、ふと、考えた。

 江戸は、巨大な町である。

 ひょっとしたら、この巨大な町のどこかに、剣術の強者がいるかもしれない。

 昔の言葉に、本当の聖賢は町中に潜む、というのがある。

 本当の剣の達人も、町中に潜んでいるかもしれない。

 こうしたことを考えて、黒鷹精久郎は、江戸に留まり、剣の達人を捜し歩いているのであった。

 いくつもの剣術道場を見て回った。

 だが、すべてが、思った通りであった。

 剣術道場などに剣術の本当の強者はいない、と思っていた通りなのである。

 それでも、ひょっとしたら、との思いで、道場を見て回っていた。

 そして、今日は、雑司ヶ谷音羽町の本多道場へ来たのである。

「黒鷹精久郎と申します。

 本多先生に、教えて頂きたいと、参上つかまつりました。

 せめて、見学なりさせて頂ければ、有り難いです」

 黒鷹精久郎にしては腰の低い挨拶である。

 江戸の水に染まったのであろうか。

 この挨拶に対する、本多道場の応対は、黒鷹精久郎の予想を超えていた。

 挨拶を受けた本多道場の門弟は、笑みで、答えた。

「よくいらっしゃいました。

 丁度よい所でございました。

 先ずは、記帳を」

 出された帳面には、四人の名前が、既に書いてあった。

 黒鷹精久郎が、書く。

「では、どうぞ、こちらへ」

 黒鷹精久郎が案内された部屋には、四人の武士が座っていた。

 四人の武士に対座して、恰幅のよい武士が座っている。

 その武士が言った。

「さ、どうぞ、どうぞ。

 そこへ、お座り下さい」

 黒鷹精久郎が座ると、恰幅のよい武士が話を続けた。

「私が、この道場の主、本多万太郎でございます。

 稽古を見学していただく前に、先ず、本多道場の来歴を説明いたします」

 本多道場は、小野派一刀流を継承する伝統を持った道場なのである、と説明した。

 そして、剣術や剣の達人にまつわる話を続けた。

 本多万太郎は話が上手であった。

 戦国時代の、伝説的な剣の勝負から、現存する神業を持つ達人まで、いろいろな話をする。

 四人の武士は、頷きながら聞き惚れている。

 黒鷹精久郎は唖然としていた。

 話が終わると、本多万太郎は立ち上がった。

「では、道場へどうぞ。

 今は、師範代の後藤寅三郎が稽古を付けております」

 黒鷹精久郎を含む五人は、丁重に、見所へ、案内された。

 そして、後藤寅三郎の稽古を見学しているのであった。


 四人の武士は唖然とした。

 先ほどの丁寧な対応との落差に驚いていたのである。

 黒鷹精久郎は莫迦莫迦しく思っていた。

 丁寧な対応も、烈しい稽古も、つまるところは、はったりではないか、と喝破していたのだ。

 黒鷹精久郎の眼から見れば、後藤寅三郎は隙だらけであった。

 後藤寅三郎は体格のよさに頼りすぎている。

 小技で柄を握る指を切り落とせば勝てる。

 このように黒鷹精久郎は読んでいたのである。

 門弟たちを相手にする稽古が、一巡した。

 後藤寅三郎は、見所に座る五人の一人に、木刀を向けた。

 後藤寅三郎が、太い声で、言った。

「貴公、稽古をつかまつろう」

 木刀を向けられた武士は、首を振りながら、言った。

「いや、今日は、どうも、調子が出ませんもので……」

 後藤寅三郎は、次の武士に木刀を向けて、言った。

「貴公、どうだ?」

「今日は、何となく腹具合が悪くて……」

「貴公は?」

「拝見するだけにしておりますので……」

「では、貴公?」

「私も、拝見だけと思っておりましたので……」

 四人の武士たちは、それぞれ、言い訳をした。

 最後に、黒鷹精久郎に、木刀が向けられた。

「貴公は、どうする?」

 黒鷹精久郎は、かるく頭を下げて、答えた。

「私も、腹具合が、いま一つなものですから……」

 もちろん、黒鷹精久郎は、稽古を恐れたわけではない。

 まともに相手するのも莫迦莫迦しい、と思ったのである。

 後藤寅三郎は、勝ち誇ったように、言った。

「ふん。稽古を見て、腹具合が悪くなったか」

 後藤寅三郎は、門弟たちに向き直って、言った。

「よし、では、もう一度だ」

 門弟の一人が、見所へ来て、五人に、言った。

「こちらへ、どうぞ」

 門弟は、別な部屋へ、五人を導いた。

 その部屋には、道場主の本多万太郎が座っていた。

 そして、箱善が、六人分、用意してあった。

 本多万太郎が、言った。

「さ、どうぞお座り下さい。

 見学に来られた方々には、一献、差し上げることにしております」

 黒鷹精久郎を除く四人の武士は、喜んだ。

 黒鷹精久郎が言った。

「私、腹の具合が悪いもので、これで失礼させていただきます」


 本多道場を出た黒鷹精久郎は、東青柳町から、富士見坂を登った。

 名前のとおり、坂の上からは、富士山が見通せた。

 坂の上から遥か彼方まで畑と草地が続き、その先が山となり、白い煙が出ているのが見える。

 近くの山塊を見下ろすようにして、彼方には富士山がそびえている。

 富士山の山頂は、白い。

 眼の下には、護持院の甍があった。

 黒鷹精久郎は、護持院から護国寺、そしてその先の畑地と白い煙、を見て、最後に富士山と対峙した。

 秋の富士山を見ながら、本多道場の不快な後味を消そうとしていたのである。

 黒鷹精久郎は、剣術を錬磨する者として、心を鍛え上げていた。

 よほどのことでも、動じることはない。

 だが、本多道場の雰囲気は、動じないはずの心を、動じさせていた。

 時間を無駄にした、と黒鷹精久郎は思った。

 しかし、ただ一つ、気になることがあった。

 道場主の本多万太郎が、話の中で、道成寺流の達人が市川真間に隠棲している、と言ったのである。

 黒鷹精久郎は、本多万太郎の言葉を、思い出していた。

「道成寺流楠山真伝斎。

 知られておりませんが、あれこそ神業の達人ですな」

 神業の達人。

 本多万太郎の言葉なので、どこまで本当かは、分からない。

 だが、訪ねてみるか、と黒鷹精久郎は、思った。

 神業のような剣術を使う、というのであれば、聞き捨てには出来ない。

 黒鷹精久郎は、相手に勝てば、相手が持つ免許皆伝の巻物を貰うことにしている。

 本多万太郎の話では、楠山真伝斎は、免許皆伝の巻物の代わりに、刀を持っているそうなのであった。

 巻物の代わりに刀を貰うのもいいか、と、黒鷹精久郎は思った。

 黒鷹精久郎は、本多万太郎の話を、思い出した。

「楠山真伝斎の持つ刀は、阿仁王丸と申しまして、大変な名刀でございます。

 これには伝説がありまして……」

 黒鷹精久郎は独り言をいった。

「本多万太郎、道場主よりも講釈師の方が似合う」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ