第三部 阿吽仁王 二
雑司ヶ谷音羽町の本多道場の見所に、黒鷹精久郎は、大人しく座っていた。
稽古を見学している五人のうちの一人として、座っているのである。
道場では、師範代の後藤寅三郎が門弟たちに稽古をつけていた。
容赦なく打ち据える厳しい指導であった。
門弟たちは恐れおののいている。
稽古を見学している五人のうちの四人も、驚いていた。
ただ一人、黒鷹精久郎だけは、退屈していた。
黒鷹精久郎が江戸にいる理由は、剣術の強者を捜すためである。
剣術の修行は、深山幽谷に限る、という通念がある。
黒鷹精久郎も、そういう考えに囚われていた。
この考えを守り、山の中で烈しい修行を続けていたのである。
だが、山を下りる必要が出て来た。
真剣勝負の試合をする約束があったのだ。
その約束を果たすために江戸へ出て来た。
真剣勝負の試合は見事に勝った。
約束を果たしたのだから、また、深山幽谷へ戻っても、差し支えなかった。
だが、黒鷹精久郎は、ふと、考えた。
江戸は、巨大な町である。
ひょっとしたら、この巨大な町のどこかに、剣術の強者がいるかもしれない。
昔の言葉に、本当の聖賢は町中に潜む、というのがある。
本当の剣の達人も、町中に潜んでいるかもしれない。
こうしたことを考えて、黒鷹精久郎は、江戸に留まり、剣の達人を捜し歩いているのであった。
いくつもの剣術道場を見て回った。
だが、すべてが、思った通りであった。
剣術道場などに剣術の本当の強者はいない、と思っていた通りなのである。
それでも、ひょっとしたら、との思いで、道場を見て回っていた。
そして、今日は、雑司ヶ谷音羽町の本多道場へ来たのである。
「黒鷹精久郎と申します。
本多先生に、教えて頂きたいと、参上つかまつりました。
せめて、見学なりさせて頂ければ、有り難いです」
黒鷹精久郎にしては腰の低い挨拶である。
江戸の水に染まったのであろうか。
この挨拶に対する、本多道場の応対は、黒鷹精久郎の予想を超えていた。
挨拶を受けた本多道場の門弟は、笑みで、答えた。
「よくいらっしゃいました。
丁度よい所でございました。
先ずは、記帳を」
出された帳面には、四人の名前が、既に書いてあった。
黒鷹精久郎が、書く。
「では、どうぞ、こちらへ」
黒鷹精久郎が案内された部屋には、四人の武士が座っていた。
四人の武士に対座して、恰幅のよい武士が座っている。
その武士が言った。
「さ、どうぞ、どうぞ。
そこへ、お座り下さい」
黒鷹精久郎が座ると、恰幅のよい武士が話を続けた。
「私が、この道場の主、本多万太郎でございます。
稽古を見学していただく前に、先ず、本多道場の来歴を説明いたします」
本多道場は、小野派一刀流を継承する伝統を持った道場なのである、と説明した。
そして、剣術や剣の達人にまつわる話を続けた。
本多万太郎は話が上手であった。
戦国時代の、伝説的な剣の勝負から、現存する神業を持つ達人まで、いろいろな話をする。
四人の武士は、頷きながら聞き惚れている。
黒鷹精久郎は唖然としていた。
話が終わると、本多万太郎は立ち上がった。
「では、道場へどうぞ。
今は、師範代の後藤寅三郎が稽古を付けております」
黒鷹精久郎を含む五人は、丁重に、見所へ、案内された。
そして、後藤寅三郎の稽古を見学しているのであった。
四人の武士は唖然とした。
先ほどの丁寧な対応との落差に驚いていたのである。
黒鷹精久郎は莫迦莫迦しく思っていた。
丁寧な対応も、烈しい稽古も、つまるところは、はったりではないか、と喝破していたのだ。
黒鷹精久郎の眼から見れば、後藤寅三郎は隙だらけであった。
後藤寅三郎は体格のよさに頼りすぎている。
小技で柄を握る指を切り落とせば勝てる。
このように黒鷹精久郎は読んでいたのである。
門弟たちを相手にする稽古が、一巡した。
後藤寅三郎は、見所に座る五人の一人に、木刀を向けた。
後藤寅三郎が、太い声で、言った。
「貴公、稽古をつかまつろう」
木刀を向けられた武士は、首を振りながら、言った。
「いや、今日は、どうも、調子が出ませんもので……」
後藤寅三郎は、次の武士に木刀を向けて、言った。
「貴公、どうだ?」
「今日は、何となく腹具合が悪くて……」
「貴公は?」
「拝見するだけにしておりますので……」
「では、貴公?」
「私も、拝見だけと思っておりましたので……」
四人の武士たちは、それぞれ、言い訳をした。
最後に、黒鷹精久郎に、木刀が向けられた。
「貴公は、どうする?」
黒鷹精久郎は、かるく頭を下げて、答えた。
「私も、腹具合が、いま一つなものですから……」
もちろん、黒鷹精久郎は、稽古を恐れたわけではない。
まともに相手するのも莫迦莫迦しい、と思ったのである。
後藤寅三郎は、勝ち誇ったように、言った。
「ふん。稽古を見て、腹具合が悪くなったか」
後藤寅三郎は、門弟たちに向き直って、言った。
「よし、では、もう一度だ」
門弟の一人が、見所へ来て、五人に、言った。
「こちらへ、どうぞ」
門弟は、別な部屋へ、五人を導いた。
その部屋には、道場主の本多万太郎が座っていた。
そして、箱善が、六人分、用意してあった。
本多万太郎が、言った。
「さ、どうぞお座り下さい。
見学に来られた方々には、一献、差し上げることにしております」
黒鷹精久郎を除く四人の武士は、喜んだ。
黒鷹精久郎が言った。
「私、腹の具合が悪いもので、これで失礼させていただきます」
本多道場を出た黒鷹精久郎は、東青柳町から、富士見坂を登った。
名前のとおり、坂の上からは、富士山が見通せた。
坂の上から遥か彼方まで畑と草地が続き、その先が山となり、白い煙が出ているのが見える。
近くの山塊を見下ろすようにして、彼方には富士山がそびえている。
富士山の山頂は、白い。
眼の下には、護持院の甍があった。
黒鷹精久郎は、護持院から護国寺、そしてその先の畑地と白い煙、を見て、最後に富士山と対峙した。
秋の富士山を見ながら、本多道場の不快な後味を消そうとしていたのである。
黒鷹精久郎は、剣術を錬磨する者として、心を鍛え上げていた。
よほどのことでも、動じることはない。
だが、本多道場の雰囲気は、動じないはずの心を、動じさせていた。
時間を無駄にした、と黒鷹精久郎は思った。
しかし、ただ一つ、気になることがあった。
道場主の本多万太郎が、話の中で、道成寺流の達人が市川真間に隠棲している、と言ったのである。
黒鷹精久郎は、本多万太郎の言葉を、思い出していた。
「道成寺流楠山真伝斎。
知られておりませんが、あれこそ神業の達人ですな」
神業の達人。
本多万太郎の言葉なので、どこまで本当かは、分からない。
だが、訪ねてみるか、と黒鷹精久郎は、思った。
神業のような剣術を使う、というのであれば、聞き捨てには出来ない。
黒鷹精久郎は、相手に勝てば、相手が持つ免許皆伝の巻物を貰うことにしている。
本多万太郎の話では、楠山真伝斎は、免許皆伝の巻物の代わりに、刀を持っているそうなのであった。
巻物の代わりに刀を貰うのもいいか、と、黒鷹精久郎は思った。
黒鷹精久郎は、本多万太郎の話を、思い出した。
「楠山真伝斎の持つ刀は、阿仁王丸と申しまして、大変な名刀でございます。
これには伝説がありまして……」
黒鷹精久郎は独り言をいった。
「本多万太郎、道場主よりも講釈師の方が似合う」




