第三部 阿吽仁王 一
徳川将軍は、卯の時に起床して、巳、および午の時に政務をした。
未の時には、奥儒者による講義を受けるか、もしくは乗馬や剣術の稽古を行った。
武家政権の最高権力者である征夷大将軍が、乗馬や剣術が出来なくては話にならないではなか。
だからといって、征夷大将軍自身が、自ら刀を持って、敵と斬り合うことはない。
あくまでも、征夷大将軍として、下の者たちに範を示すための武術なのだ。
まあ確かに、征夷大将軍自身が、自ら刀を持って、敵と斬り合うようになっては、その武家政権はお終いであろう。
その事例が、戦国時代にある。
室町幕府、第十三代将軍の足利義輝である。
足利義輝は、塚原卜伝から免許皆伝を授かるほどの強者であった。
有名な剣術者に教わる、というだけなら、足利将軍の名を利用すれば、容易いことであろう。
しかし、正式に免許皆伝を受けるというのは、ただ事ではない。
また足利義輝は、名刀の収集家としても有名であった。
これは、足利将軍の地位を使えば難しいことではない。
というよりも、刀の収集くらいにしか、足利将軍の地位は使えなかったのである。
時代は正に、下克上。
足利幕府の実際の権力は、管領細川氏を中心とする守護大名たちに握られていたのである。
その細川氏は、家臣の三好長慶に実権を奪われた。
その三好長慶の家臣の松永久秀が足利義輝を襲った。
世に言う永禄の変である。
襲われた足利義輝は、収集していた多くの名刀を、鞘を抜き払い、畳に突き刺した。
そして、襲い来る敵兵を、次々と斬り倒したのである。
刀が折れれば、未練なく捨て、畳に突き刺した次の刀を使うのであった。
これほど本当の戦場で剣術の技を実際に使った例は、他にはないであろう。
しかし、衆寡敵せず。
とうとう、足利義輝は、殺されてしまったのである。
このとき、最後に握っていた刀が、越中呉服郷郁正が鍛えた、阿仁王丸と呼ばれる名刀であった。
阿仁王丸は、勝利の品として、松永久秀の持ち物になった。
その、松永久秀は、織田信長に滅ぼされた。
阿仁王丸は、織田信長の手に渡った。
そして、本能寺の変で、阿仁王丸は、明智光秀が手に入れたのである。
その後、阿仁王丸がどうなったのか、定かでない。
ところで、大刀の阿仁王丸に対して、吽仁王丸という小刀があった。
足利義輝が襲われたとき、寝所を逃れた側女が、この吽仁王丸を抱いていた。
足利義輝が、形見として側女に渡したのである。
側女は、戦国大名の上杉氏を頼って越後の国へ下った。
その後、側女は、同地で剃髪をし、足利義輝の菩提を弔って一生を終わったということである。
側女は、足利義輝の最後を思い、形見の吽仁王丸を見て泣いていた。
吽仁王丸も、夜泣きしたそうである。
これは、大刀の阿仁王丸と離れたことを悲しく思って、夜泣きしているのだ。
大小二振りの名刀が、お互いを呼び合って、夜泣きする――。
大小が分かれているときは、お互いを捜して、血を求める――。
大小を揃えて腰に差した者は、名刀の切れ味を試すため、人を斬りたくなる――。
よくある名刀伝説の一つである。
名工が鍛えた名刀なので、このような伝説も生まれるのであろう。
伝説はともかく、阿仁王丸と吽仁王丸は、離ればなれになったままで、時代が経過していた。
そして、二百年の時が経過して、寛政の時代となった。




