第二部 巖頭孤鷹 六
塚原千秋と吉野正太郎が、再び真剣で試合をする約束の日。
酉三ツの刻。
春の日は、もちろん、暮れている。
曇天で、小雪が舞っている。
瑞竹寺の裏手である。
瑞竹寺の裏から、黒鷹精久郎が寝起きしている念仏堂のある竹藪へ向かうあたりが、伐り開かれている。
裏庭だ。
というよりも、使わない道具などを雑多に置いてある、広場であった。
そこに、かがり火が焚かれていた。
風がある。
炎がはげしく揺れ、竹藪が吼えていた。
かがり火を囲んで、四人がいた。
塚原千秋と吉野正太郎は、襷をかけた、試合の格好である。
あとの二人は、芥川行蔵と中清水兵馬であった。
塚原千秋と吉野正太郎は、試合を前に、落ち着き払っていた。
中清水兵馬は、少し、苛ついている。
いつ試合を始めるのだ、と思っているようだ。
そんな中清水兵馬を見て、芥川行蔵が言った。
「おかしいなぁ。黒鷹さん、どうしたんだろう」
中清水兵馬が言った。
「どうします? お二人が承知なら、もう、始めましょう」
「もう少し、待って下さい。
黒鷹さんも後見人なのですから」
それから小半時が過ぎた。
吉野正太郎が、「ごめん」といい、脇へ下がって、素振りを始めた。
さすがに身体が冷えてきたのである。
中清水兵馬が、芥川行蔵に、言った。
「これ以上、待たされるのは、お断りしたい。
試合を見届けるのは、貴公一人で……」
芥川行蔵が、頭を下げて、言った。
「ま、そう、おっしゃらずに。
もうすぐ……。
あ、来た」
黒鷹精久郎が現れた。
左手に、掛け軸の箱を持っている。
芥川行蔵が、黒鷹精久郎に、言った。
「黒鷹さん遅いですよ。どうしたんです」
黒鷹精久郎が答えた。
「四ッ谷まで行っていた」
「四ッ谷? なんでまた、そんなところまで」
「御手先組の家がある」
黒鷹精久郎が、中清水兵馬を指さして、続けた。
「こ奴の家を見つけて、家の中を探していた」
中清水兵馬が驚きの声を上げた。
芥川行蔵が、その声を無視して、黒鷹精久郎に聞いた。
「探していた? 何を?」
黒鷹精久郎が、掛け軸の箱を見せて、言った。
「これ。
それに、五両」
中清水兵馬が言った。
「なんだと」
黒鷹精久郎が、中清水兵馬に言った。
「私の五両、返して貰った」
中清水兵馬が怒鳴った。
「おい!」
芥川行蔵が、その声を無視して、黒鷹精久郎に言った。
「黒鷹さん、人の家から五両、持ってきたんですか?
それはまずいでしょう」
「そう言うな。
押入の奥から、これを見つけたんだから」
「何です、それ?」
「正法寺の月仙和尚が殺されて盗まれた絵だ」
黒鷹精久郎は、箱から掛け軸を取りだし、拡げた。
そして、言った。
「この通り、間違いない」
芥川行蔵が、冷たい声で、言った。
「じゃぁ」
黒鷹精久郎が、掛け軸を巻き戻して、言った。
「さよう。盗まれた掛け軸を持っている者が下手人。
すなわち、この中清水だ」
中清水兵馬が言った。
「何を言う!」
芥川行蔵が、中清水兵馬に聞いた。
「中清水さん、どうなんです?」
「馬鹿なことを聞くな。もちろん違う」
黒鷹精久郎が言った。
「だが、これ、おぬしの家の押入の奥にあった」
芥川行蔵が、頷いて、言った。
「それなら、間違いないな。
動かぬ証左」
黒鷹精久郎が、中清水兵馬に言った。
「何か、言うことがあるか」
中清水兵馬は、怒りを抑えた顔をして、言った。
「その掛け軸だが、拙者の家にあったという証左はあるのか」
黒鷹精久郎が声を出した。
「え?」
芥川行蔵も声を出した。
「あ、そうか」
中清水兵馬が、芥川行蔵へ言った。
「おい。こやつの話を真に受けるのか?」
芥川行蔵は、首を傾げながら、黒鷹精久郎に聞いた。
「そう言えば、そうだ。
黒鷹さん、押入の奥から掛け軸を取り出すのを、誰か見てましたか」
黒鷹精久郎が答えた。
「まさか。人の家に忍び込むのに、人に見られたりするものか」
中清水兵馬が言った。
「そらみろ」
芥川行蔵が、静かな声で、言った。
「黒鷹さん、まずいですよ」
中清水兵馬が、勝ち誇ったように、言った。
「いまここで掛け軸を持っているのはお前だ。
掛け軸を持っている者が殺したというなら、お前が下手人。
おい、同心、どうだ?」
芥川行蔵が、感情を込めない声で、言った。
「そうですねぇ。
黒鷹さん、ご用の筋として、お聞きしたいのですが」
黒鷹精久郎が言った。
「分かった。これは、無しとしよう」
黒鷹精久郎は、掛け軸を、箱に納めた。
芥川行蔵が聞いた。
「無しにする?
どうするつもりです?」
「燃やす」
黒鷹精久郎は、かがり火に近づいて、言った。
「灰にすれば、証左も何も無くなる」
芥川行蔵が、ぼんやりした口調で、言った。
「そりゃぁ、そうですが」
黒鷹精久郎は、掛け軸の入った箱を、かがり火に投げ入れようとした。
中清水兵馬が、慌てて、言った。
「おい、馬鹿なことをするな」
黒鷹精久郎が言った。
「確かに馬鹿かもしれないな。
拙者の五両と和尚の五両、合わせて十両の絵を燃やすんだから」
中清水兵馬が言った。
「ち、ちがう。やめろ」
黒鷹精久郎は、中清水兵馬の声を無視して、掛け軸の入った箱を、かがり火に投げ入れた。
中清水兵馬が、悲痛な声を出した。
「あ、ああ。や、やめろ……」
中清水兵馬が、かがり火に飛び込んで箱を取り上げた。
かがり火から出て箱の火を消す。
そして、自分の衣服に付いた火を消しながら、言った。
「馬鹿! 何て事をする。
これは、十両なんかじゃない。
千両はする。
雪舟の絵なんだぞ」
黒鷹精久郎は、冷たい眼で、中清水兵馬を見た。
芥川行蔵も、中清水兵馬を見ている。
中清水兵馬は、冷たい眼の黒鷹精久郎を、見た。
黒鷹精久郎が言った。
「なぜ雪舟と知っている?」
中清水兵馬は愕然とした。
芥川行蔵が言った。
「先ほどわずかに絵を見ましたが、波と巖と鷹しか見えなかった。
あれだけで、雪舟と分かるのは、無理ですよ」
黒鷹精久郎は、左手で、鯉口を切った。
中清水兵馬が、掛け軸の入った箱を抱えたまま、黒鷹精久郎に言った。
「お前の策か」
黒鷹精久郎は、黙ったままである。
芥川行蔵が、中清水兵馬に言った。
「あなたは、霞流居合を使うらしいが、それじゃぁ、刀は抜けませんぜ」
中清水兵馬は、黒鷹精久郎を睨んだままである。
芥川行蔵が続けた。
「箱を投げつけたら、黒鷹さん、遠慮なく絵を斬りますよ。
雪舟なんて気にしないお人だから」
黒鷹精久郎が、中清水兵馬から眼を離さず、芥川行蔵に、声を投げた。
「おい」
「はい?」
「うるさい」
芥川行蔵が、剽軽に答えた。
「はい、はい」
黒鷹精久郎が、剽軽な口調を咎めるかのように、芥川行蔵を見た。
その瞬間である。
中清水兵馬は、掛け軸の入った箱を落とすと、刀を握った。
腰を捻る。
腰を使い、鞘から刀身を抜き出した。
その一瞬前である。
黒鷹精久郎が、一歩、踏み出した。
腰を使い、鞘から刀身を抜き出した。
その刀身が中清水兵馬の腹を薙いだ。
中清水兵馬が倒れた。
芥川行蔵が、掛け軸の入った箱を取り上げて、独り言をいった。
「黒鷹さんに絵を投げなかった。絵を犠牲には出来なかったんだな」
黒鷹精久郎が、刀を拭って鞘に収め、塚原千秋と吉野正太郎の方を向いた。
塚原千秋は、驚いた表情を、そのまま顔に出している。
吉野正太郎は感心した表情である。
黒鷹精久郎が、二人に、軽く頭を下げて、言った。
「失礼した。
貴殿たちの試合には関係ないことなのだが、私の五両を取り戻すために、策を設けた。
それで試合だが」
黒鷹精久郎が続けた。
「私が、貴殿たちの試合の勝負判定をさせていただく。
如何?」
吉野正太郎が言った。
「いや、試合は止しにしたい。
あれほど見事な技を見た後では、恥ずかしい。
塚原殿、どうですかな?」
塚原千秋が、黙って、頷いた。
吉野正太郎が、黒鷹精久郎に言った。
「いつか、お相手、願いたい」
黒鷹精久郎が言った。
「御随に」
吉野正太郎が歩き去った。
芥川行蔵が、黒鷹精久郎に聞いた。
「この掛け軸、どうします」
黒鷹精久郎が言った。
「私は、五両を取り戻せれば、それでいい」




