第二部 巖頭孤鷹 五
小書院である。
芥川行蔵が、感情を交えて、言った。
「千秋さん、自信を無くしたようだ」
黒鷹精久郎は、何の感情も交えずに、言った。
「仕方ない」
「以前、坂の上の金時と名乗る盗賊がいました。
これが大男で、鉞を振り回すんですよ。
目の前に鉞が迫ってきたとき、怖かったなぁ」
「大きな刃物より、小さな扇子が怖いこともある」
「え?」
「行こう」
「まだ、試合をしてますよ。霞流の使い手は?」
黒鷹精久郎が、立ち上がった。
芥川行蔵も、続いた、立ち上がった。
廊下へ出たとき、黒鷹精久郎が言った。
「俳号が世喜か」
「はい」
「算術の号なら十五だな」
「は?」
「算号、十五」
芥川行蔵は、黙っていた。
「算術をやる者は五、六」
芥川行蔵は、少し顔をしかめた。
黒鷹精久郎が続けた。
「算士吾郎」
屋敷の東側の二十畳の部屋が、試合出場者の控えの間になっていた。
各人が、思い思いの場所で休んでいる。
塚原千秋は部屋の隅に座っていた。
うなだれている。
自信を喪失したのである。
黒鷹精久郎と芥川行蔵が入って来た。
二人が塚原千秋の前に座る。
黒鷹精久郎が言った。
「いかがでした?」
塚原千秋が、青い顔をして、小さく答えた。
「目の前の刀が、とても大きく見えて」
「そんなものです」
「黒鷹様に斬りかかった事が……どういう事か……よく分かりました……」
「それはよかった」
塚原千秋は、涙を浮かべながら、頷いた。
黒鷹精久郎が、冷たい声で言った。
「真剣を目の前にして、怖くなりましたか?
もう、剣術は止めますか?」
塚原千秋は、俯いて、畳を見ている。
黒鷹精久郎は、何も言わない。
塚原千秋は、脇に置いてある大刀を掴んだ。
鞘から抜く。
白銀の刀身を凝視した。
大きく、息を吸って、吐く。
刀身を鞘に収めた。
大刀を置き、黒鷹精久郎に言った。
「真剣勝負の恐怖が分かりました。
この恐怖、きっと克服します。
そうしなければ、御先祖に申し訳ない」
「千秋殿も、頑固なお人だ。
剣術をやる覚悟が出来ましたか?」
塚原千秋は、黒鷹精久郎を見据えて、言った。
「出来ました。
覚悟。
剣を生きる者の覚悟。
剣で死ぬ者の覚悟」
黒鷹精久郎は、頷いて言った。
「お膳立てをして差し上げようか」
黒鷹精久郎は、芥川行蔵に、言った。
「いつぞや、私も冗談を言うようになったか、と申したな?」
芥川行蔵が、のほほんと、答えた。
「ええ。さすがの黒鷹さんも、江戸の水に染まったんですかね」
「そうかもしれない。こんな策をする気になったんだから」
黒鷹精久郎が、芥川行蔵に、耳打ちした。
芥川行蔵が、驚いた。
「え、ええ?」
黒鷹精久郎が、続けて、囁いた。
「そこで……」
それから暫く、三人は部屋の隅に座っていた。
芥川行蔵が、塚原千秋に、話しかけていた。
塚原千秋を、力づけているのだ。
塚原千秋にも、そのことが分かった。
黒鷹精久郎は、黙ったまま、広間を見ている。
そこに控えている剣術家たちを値踏みしているのだ。
黒鷹精久郎の眼で見て、これは、と思う者は、ほとんどいない。
吉野正太郎が、部屋へ入ってきた。
吉野正太郎が、塚原千秋を見つけて、近寄ってきた。
吉野正太郎が、塚原千秋に言った。
「塚原殿」
塚原千秋は、怪訝な顔をして、吉野正太郎を見た。
「今、念流に負け申した。
木刀での試合は、確かに、引き分けであったようだ。
そのことを申し上げておく」
黒鷹精久郎が言った。
「だが、真剣は、また、別なもの、と言いたいのか?」
吉野正太郎が聞いた。
「おぬしは?」
「黒鷹精久郎」
「確か、貴公、塚原道場の四天王を倒したとか、聞いた。
一度、立ち会いたいものだ」
「その前に、この塚原殿と、もう一度立ち会ってもらえないか?」
「それは構わないが。真剣だろうな」
「むろん」
「心得た」
「かたじけない。
いずれ、連絡する」
「では」
吉野正太郎が歩き出そうとした。
「一つ聞きたい」
黒鷹精久郎が、呼び止めて、言った。
「先ほど、なぜ、扇子を斬った。
扇子の事など気にとめず、そのまま相手を斬ってもよかっただろうに」
「斬らなければ、眼に刺さっていた」
黒鷹精久郎は、歩き去る吉野正太郎を、見ていた。
松平肥後守開催剣術試合は、申の刻に終わった。
その後、酒宴となり、一刻の後、解散となった。
三々五々、松平肥後守中屋敷から、武士たちが出て来る。
試合で勝負判定をした中清水兵馬も出て来た。
そこに、黒鷹精久郎と芥川行蔵が近寄って行った。
芥川行蔵が、中清水兵馬に言った。
「率爾ながら、芥川行蔵と申します。
こちらは、黒鷹精久郎殿」
「なんでしょうか?」
「我々二人、縁ありまして、塚原千秋殿の後見をしております」
「はい、それが?」
「我ら、後見人として、先ほどの試合、あれでは、いかにも名残惜しい。
もう一度試合をして、はっきりと決着をつけたいと思います。
吉野殿も了解していただきました。
つきましては、もう一度、勝負判定をお願いしたいのですが」
中清水兵馬が、首を傾げながら、言った。
「というと、先ほどと同じように」
「はい、真剣で。
今度はどちらかが倒れるまで」
「しかし、それは……」
「双方、納得しております」
中清水兵馬が、躊躇しながら、言った。
「だが、何と言っても、命のやりとりですから」
「ご心配なく。
それに……」
芥川行蔵は、腰の右後ろから十手を引き抜いた。
「拙者は、これですので、死人が出ても、中清水殿には、一切ご迷惑を、おかけ致しません」
「そうまでおっしゃるなら、引き受けましょう」
「かたじけない。
それでは、本郷の瑞竹寺裏庭で。
明後日、酉三ツの刻に」




