第二部 巖頭孤鷹 四
寛政年間。
徳川が天下を盗ってから、ほぼ二百年が経過している。
戦いの時代は、はるか彼方に去っていた。
だが、武士は、戦う者、として身分が決められている。
徳川幕府が、武士の身分を決め、武術を奨励しているのである。
それで、寛政の時代でも、武士にとり、武術は生活そのものであった。
江戸の町中に剣術道場も多い。
剣術の試合も、多数、行われていた。
松平肥後守が開催する剣術の試合も、そうしたものの一つであった。
松平肥後守が、江戸の主立った剣術道場に声をかけて、参加を募った。
腕に自慢のある者は、参加されよ。
身分は不問とする。
と、いうわけなのである。
だが、さすがに、譜代大名が開催する試合ではある。
よほどの腕自慢でなければ、参加することは躊躇するのであった。
塚原千秋は、参加を表明した。
塚原道場の道場主であり、自身、新当流免許皆伝の腕を持っている。
勝ち続ける自信は、充分に、持っていた。
芝口愛宕下に松平肥後守の中屋敷がある。
松平肥後守開催剣術試合の日である。
まだ甍に雪が残っているが、日差しは、春を感じさせる日であった。
表棟の広間の縁側の中央に、松平肥後守が座っていた。
その左右には、招待客が並んでいる。
後ろには、松平家の侍たちが座っている。
広間の前の庭に、陣幕が張られ、東西に分かれて、試合をする武士が座っていた。
松平肥後守の用人が、太い声で、言った。
「……ということで、試合は勝ち抜き、といたします。三人勝てば、そこで休息。その後……」
広間から廊下を曲がったところの部屋は小書院であった。
そこから見れば、試合をする庭と、松平肥後守たちのいる縁側が、一目で見渡せる位置に、小書院はあった。
その小書院の障子が、少し、開いていた。
障子の隙間から、黒鷹精久郎と芥川行蔵が、覗いている。
町奉行から話を通し、ここで見学しているのだ。
芥川行蔵は、試合に参加する者たちを記した書付を持っていた。
用人の説明が、続いていた。
「……、勝負の判定は、酒井道場、中清水兵馬殿が行います。中清水殿」
用人が退き、中清水兵馬が庭に出てきた。
縁側に向かって一礼し、通る声で、言った。
「それでは、始めます。
東、新伝流秋田八郎殿、西、小野派一刀流伊藤十兵衛殿」
こうして剣術試合が、始まった。
小書院である。
芥川行蔵は、感慨深げに試合を見ていた。
いずれも腕自慢の者たちの試合なのだ。
実に面白い、と感心しているのである。
だが、霞流居合の使い手を見抜く眼は、芥川行蔵には、ない。
黒鷹精久郎は、何の感慨もなく、試合を見ていた。
それぞれの道場の腕自慢の者たちが、木刀を振っているのだ。
しょせんは、道場剣術の試合でしかない、と思っていた。
試合を見ている目的は、もちろん、霞流居合の使い手を見抜くことであった。
見抜けるか?
正直なところ、黒鷹精久郎にも、五分五分であった。
腕が未熟な者と、修練を積んだ者との違いは、すぐに分かる。
真剣で、人を斬ったことがあるかどうか、これも分かる。
だが、それ以上の技量に関しては、見ているだけでは、判断が難しかった。
名を現在に知られている過去の名人や達人ならば、あるいは、見ただけで、技量を見抜く神眼を持っていたかも知れない。
だが、黒鷹精久郎は、自分自身で、そうした名人や達人ではないことが、よく分かっていた。
次々と試合に出る者の中で、黒鷹精久郎が、これは、と思う者もいた。
しかし、それ以上の確信は、掴めないのであった。
試合が続いている。
黒鷹精久郎が聞いた。
「俳号は?」
「世喜」
「世を喜ぶか……」
「蕉風は、もう、いいですよ。
枯淡よりも、人の世ですよ」
中清水兵馬が、次の者を呼び出した。
「次、東、卜伝派新当流塚原千秋殿」
塚原千秋の出番になったのだ。
塚原千秋が、控えの席から立ち上がった。
相手と、対峙する。
「やぁー」
すぐに、気合いとともに、踏み込んだ。
塚原千秋の木刀が、相手の胴を薙いだ。
中清水兵馬が、扇子を東に上げ、塚原千秋の勝ちを宣言した。
「それまで。次、西、神刀流飯田達之助殿」
塚原千秋と飯田達之助の木刀が打ち合った。
乾いた音が邸内に響く。
塚原千秋が、飯田達之助の腕を打った。
中清水兵馬が、扇子を東に上げた。
「それまで。次、西、無外流吉野正太郎殿」
小書院である。
芥川行蔵が、言った。
「さすが塚原道場。千秋さん、なかなかやりますな」
黒鷹精久郎は、無言で、吉野正太郎を凝視している。
「あれ?
見つけましたか。
吉野正太郎?」
芥川行蔵は、書付で調べた。
「ええと、吉野正太郎、出羽佐竹家の江戸詰め祐筆です。
どうです?」
「うむ。何とも、言えん」
塚原千秋が、吉野正太郎と対峙した。
お互い、中段に構えたまま、動かない。
木刀の間の距離は二尺ほどである。
睨み合いが続く。
塚原千秋の腰が、少し、引けた。
吉野正太郎が飛び込んだ。
塚原千秋の木刀が受ける。
塚原千秋の木刀が飛んだ。
吉野正太郎の木刀が折れた。
塚原千秋と吉野正太郎が、睨み合う。
中清水兵馬が、割って、入った。
「それまで。引き分け」
吉野正太郎が、中清水兵馬を睨んで、言った。
「何? 違うぞ。拙者の勝ちだ」
中清水兵馬が言った。
「私の判定に不服か」
「ああ」
「ほとんど紙一重。
相打ちでござろう」
「その紙一重、拙者が先だ。
真剣なら、あいつは倒れている」
「これは真剣ではない」
「では、真剣での勝負を望む」
「しかし」
「剣術の試合、真剣でなければ本当の勝負は出来ん」
中清水兵馬は、控えにいる用人を見、それから廊下の真ん中の松平肥後守を見た。
松平肥後守が頷いた。
中清水兵馬は、塚原千秋を見た。
塚原千秋が、肩で息をしながら、頷いた。
中清水兵馬は、一歩下がり、塚原千秋と吉野正太郎の二人に、言った。
「よろしい。では、ご用意下さい」
二人は、刀を取りに、行った。
小書院である。
黒鷹精久郎が、乾いた声で、行った。
「馬鹿なことをする」
芥川行蔵が、聞いた。
「千秋さんも、人を斬った経験がありましたよね」
「あれは、敵討ちで、気力が違っていた。
今度は、そうはいかない」
塚原千秋と吉野正太郎が、大刀を腰に差して、出てきた。
中清水兵馬が、鋭い声で、言った。
「始め!」
塚原千秋と吉野正太郎は、お互い、半歩下がり、刀を抜いた。
そのまま、対峙する。
吉野正太郎が、静かに、間合いを、詰めてきた。
塚原千秋が、後退する。
塚原千秋の顔に、恐怖の色が出てくる。
塚原千秋は、後方へ飛び、刀を下げ、左手を前にして、声を出した。
「ま、まいった」
吉野正太郎は、踏み込み、刀を振り上げた。
中清水兵馬が、手に持っていた扇子を吉野正太郎に投げつけて、叫んだ。
「待て」
吉野正太郎は、扇子を斬り、中清水兵馬に、言った。
「なぜ止める」
「もう、よかろう。
塚原殿は、まいった、と言っておる」
「真剣勝負は、斬るか斬られるかだ」
「勝ち負けが付けば、それでよい。
松平様の庭を血で汚すおつもりか?」
吉野正太郎は、しぶしぶ、刀を納めた。
塚原千秋は、肩を落とし、控えの間へと、歩いて行った。




