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第二部 巖頭孤鷹  三

 巴屋は眼が見えなかった、と黒鷹精久郎が言っても、芥川行蔵は首を傾げるだけだった。

「はぁ? どういうことですか?」

 黒鷹精久郎は、それに答えず、別なことを言った。

「話は変わるが、江戸で有名な算術の名人を知らないか」

 芥川行蔵は、足を止めて、言った。

「はぁ? 算術は趣味じゃないんです」

「そうか」


 巴屋のある日本橋北内神田両国浜町から、八町堀霊岸嶋日比谷町に来ると、さらに町屋が集積している。

 青物や魚を扱う店が並んでいる。

 小路へ入ると、一軒作りの町屋が並んでいる。

 それは、そのような町屋の一つであった。 

 稲荷に隣接している。

 瀟洒な作りである。

 玄関扉には貸家の札が付いていた。

 だが、これは、人を欺く策略なのであった。

 借手が、大家に頼み、誰もいないように見せかけているのだ。

 その借手は萩家江戸家老吉田吉次郎であった。

 江戸家老なので、吉田吉次郎は、萩家上屋敷に住んでいる。

 徳川の意向を察知し、萩家の安泰を守るために、様々な工作をしなければならない。

 そうした工作の、いわば前線陣地が上屋敷なのである。

 上屋敷で、様々な策略を練り、配下の侍を動かして、工作を実行するのだ。

 戦国の世の軍略にも匹敵する策略は、広大な庭を歩きながら、考える。

 しかし、いくら一万坪の上屋敷でも、人の眼は、常にある。

 江戸家老といえども、人の眼から、完全に逃れることは出来ない。

 非常に高度な策略を練るには、人の眼は邪魔である。

 それに、萩家の為だけではない。

 一身の為の策略も練らなければならない。

 こうしたことがあるので、江戸家老吉田吉次郎は、密かに、いくつかの町屋を借りていた。

 その町屋で、本当に人の眼を逃れて、人に知られては困る策を練るのだ。

 日比谷町の、貸家の札が付いた町屋も、そのような隠家の一つであった。

 この家にいるのは、吉田吉次郎と、腹心の用人の、二人だけである。

 吉田吉次郎は、蝋燭の火で、碁盤を見つめていた。

 囲碁を考えているのではない。

 白と黒の石を見ながら、心の中では、黄金色を考えていた。

 つまりは財政のことを考えているのである。

 用人が部屋の外へ来た。

「御家老」

「何だ?」

「お眼にかかりたい、という者がまいりました」

「こんな時間にか?」

 木戸も閉まっている時間である。

「はい。夜の方がよろしかろう、と申しております」

「名前は?」

「黒鷹精久郎、と名乗っております」

「ほほう」

 さすがに江戸家老を務める人物ではある。

 慌てることもなく、用人に言った。

「通せ」

 江戸家老吉田吉次郎は、黒鷹精久郎を忘れるはずはない。

 恨み骨髄なのだ。

 だが、それは腹に収めている。

 それよりも、なぜこの家が分かったのか、を考えた。

 吉田吉次郎が町屋を持っていることは、以前の策略で動かした侍が教えたことは、分かっている。

 もちろん、教えた侍は、もうこの世にはいない。

 問題は、吉田吉次郎の持つ町屋は、ここ一つではないことだ。

 今日この町屋にいることが、なぜ分かったのか、を考えているのだ。


 黒鷹精久郎が、部屋へ入って来た。

 吉田吉次郎は、黒鷹精久郎を凝視した。

 黒鷹精久郎が言った。

「失礼する」

 そして、碁盤を中にして、対座した。

 吉田吉次郎が、低い声を出した。

「なるほど。貴公が黒鷹精久郎か」

「お眼にかかるのは、始めてだな」

「顔つなぎ、ということで一献?」

「酒は飲まない」

「では、一服?」

「それも結構」

「用件だけにするか。で、何の用だ?」

「そちらの方で用があるのではないのか?」

「ない。

 あれは、もう済んだことだ」

「ほう?

 もう少し物事に執着する方と思っていたが」

「執着しているのは御家の事だ。

 御府内で斬り合いをしたことが御公儀に知られそうになり、もみ消すのに、えらい苦労をした。

 これ以上は算盤が合わない。

 あの事は、もう、蓋をして土に埋めてある」

「分かった」

「それを確かめに来たのか?」

「別な事だ。

 最近、書画骨董を売り出したと聞いたが」

「巴屋が言ったのか。

 口の軽い奴め」

 吉田吉次郎は納得した。

 巴屋から一番近い町屋は、ここなのである。

 だが、巴屋と黒鷹精久郎は、どういう関係なのだ。

 これを考えながら、吉田吉次郎は、言った。

「今、萩家には金がない。

 一両、いや一文でも欲しい」

「だから、先祖代々伝わる宝を売りに出した?」

「さよう」

「あの中に、宮本武蔵の絵があったのをご存じか?」

「宮本武蔵?」

「荒海の巖に鷹が留まっている絵だ」

「ああ、覚えている。宮本武蔵が描いたとは、巴屋の見立てか?」

 黒鷹精久郎は頷いた。

 吉田吉次郎が言った。

「あれは、もっと古い。

 それこそ、ほれ、尼子の時代からお家に伝わっているものだ」

「やはりそうか」

「宮本武蔵の作としたのなら、巴屋は見る眼がないな」

「御家老は、誰の作だと思う?」

「知らん。絵に興味はない」

「墨の古さ、絵の迫力、そして萩家に伝わっていたことからして、雪舟に間違いないようだ」

「ほう。

 確かに、雪舟は晩年、尼子の領地に住んでいたことがあるらしいが」

 吉田吉次郎は、思い出しながら、言った。

「あの絵は、確か、御家のご先祖が……尼子で……。

 そうだ、雪舟であろう」

「雪舟ならば、千両の価値がある。

 それを、はした金で手放してしまった。

 悔しいとは思わないのか?」

「思わん。済んだことだ。

 拙者が考えるのは、これからの事。

 萩三十六万石の事だ」

「よく分かった。

 念のため、雪舟であることを確かめたかったのでな」

「まさか、貴公、千両の価値なので雪舟を探しているのか?」

「もちろん違う。私の五両を取り戻すためだ」

「それなら分かる」

「邪魔をした」

 黒鷹精久郎は立ち上がった。

 吉田吉次郎が呼び止めた。

「あ、待て」

 吉田吉次郎は、手文庫から切り餅を四つ取り出した。

 切り餅一つが二十五両、都合、百両である。

 畳の上に、四つの切り餅を置き、言った。

「よかったら使ってくれ」

「御家老、萩家には金がない、とたった今、言ったはずだが?」

「さよう。無駄にする金は一文もない。

 無駄にする金はな」

「ふむ」

「大阪の陣の前、秀頼公は、真田幸村に金を与えるのを惜しまなかったそうだ」

「またやるつもりか?」

「徳川は戦いを、まだ続けている。

 どうだ?」

「分かっているだろう。

 私には、葵も桐もない。

 独りで動く人間だ」

「承知している。

 だが、拙者は家老。

 人を動かせなくては、この職は勤まらない」

「私を動かせるか?」

「そのうちに、な」

 黒鷹精久郎は、微笑をして、言った。

「さらば」


 黒鷹精久郎は、夜道を、本郷の瑞竹寺へと歩いた。

 提灯は点けない。

 夜道を暗いまま歩くのも、武術の鍛錬と心得ているのだ。

 日本橋から不忍池を目指し、そこから根津権現へ向かう。

 もちろん、木戸は閉まっている。

 木戸番に声をかけて、潜り戸を開けてもらうのだ。

 団子坂を上り、専念寺まで来た。

 そして、ふと、歩を止めた。

 またすぐに歩き出す。

 専念寺の先に横道がある。

 その道から白刃が出た。

 黒鷹精久郎は、身をかわし、相手の両手を掴む。

 そのまま、捩って、投げる。

 相手は、道に倒れた。

 黒鷹精久郎は、倒れた相手に、怒り声を出した。

「千秋殿、いい加減にしないか」


 塚原道場には四天王と呼ばれる者たちがいたが、ほとんどが、黒鷹精久郎に倒されてしまった。

 これで、塚原道場は大きく揺らいだ。

 しかし、塚原千秋は気丈であった。

 自ら道場主となり、道場を続けていくことを決心した。

 塚原千秋自身も、新当流の使い手である。

 自ら道場に立ち稽古をつけた。

 確かに、以前に比べれば、門人の数は減っている。

 だが、塚原千秋の努力の甲斐があり、道場は存続していた。

 問題は黒鷹精久郎である。

 塚原千秋にとり、黒鷹精久郎は気になる存在となった。

 四天王を斬られて遺恨に思っている、というのではない。

 四天王が斬られたのは、それなりの理由があるのだ。

 それは納得している。

 塚原千秋が気になるのは、黒鷹精久郎の強さであった。

 新当流の使い手として、塚原千秋は、何人もの剣術使いを見てきた。

 強い、と感心する者たちも、沢山いた。

 だが、黒鷹精久郎の強さは、特別であった。

 黒鷹精久郎には、動物的な凄味を感じるのである。

 黒鷹精久郎に剣術を学びたい、と塚原千秋は思った。

 だが、黒鷹精久郎は、道場で木刀を振るうような人物ではない。

 それで、黒鷹精久郎の歩く道筋に待ちかまえて、斬りつけていたのである。


 萩家江戸家老吉田吉次郎の町屋を訪れた次の日の昼である。

 黒鷹精久郎は、塚原道場の部屋で、塚原千秋と対座していた。

 若い娘の匂いが、部屋に満ちていた。

 黒鷹精久郎が、塚原千秋の待ち伏せに気が付いたのも、一つには、その匂いにある。

 その匂いが、今、部屋に満ちているのだ。

 しかし、黒鷹精久郎が、それに心を動かされることはない。

 大刀も左脇に引き寄せてある。

 黒鷹精久郎は、苦々しく、言った。

「千秋殿、いい加減にしてもらいたい」

 塚原千秋は、黒鷹精久郎を見据えて、言った。

「父が死に、夫にと思った人には裏切られました。

 残されたのは、この道場だけです。

 私が強くならなければ、道場をやっていけません」

「だからといって、私を稽古台にするのは迷惑だ」

「今、江戸でいちばん強いのは黒鷹精久郎様と思っております。

 そのお方を稽古台にするのは当然の話」

「しかし、真剣で斬りかかってくる。

 私が真剣で応対したら、どうするつもりだ」

「その刀が受けられなかったら、死ぬだけ。

 覚悟は出来ております」

 黒鷹精久郎は、甘い、と思った。

 道場で木刀を振り回すのと同じつもりで、真剣を振り回す、これが、先ず、甘い。

 待ち伏せを稽古にする、これも甘い。

 待ち伏せして真剣で斬りかかるのは、稽古ではないのである。

 真剣で斬りかかれば、真剣で応対されるのが当然なのだ。

 負ければ死ぬだけ、と軽く言う、なんという甘さだ。

 つまるところは、道場で剣術をやる者の甘さであった。

 だが、それを指摘するつもりは、なかった。

 ただただ、つきまとわれるのが五月蠅いのである。

  

 障子の外に声がした。

「先生」

 塚原千秋が答えた。

「何です」

「同心の芥川行蔵様が、お見えです」

「何の用かしら」

「黒鷹様に用があるとか」

「お通し、しなさい」

 芥川行蔵が入って来た。

「失礼します。お邪魔でしたか?」

 芥川行蔵は、勝手に、座り込んだ。

 黒鷹精久郎が言った。

「なぜ、私がここにいると分かった」

 芥川行蔵が、笑いながら、答えた。

「それが分からなくては、同心は勤まりません」

 黒鷹精久郎が、小さく、言った。

「それもそうだな」

 芥川行蔵が、書付を懐から出しながら、言った。

「例の剣術試合の件ですが、これです」

 芥川行蔵が、書付を黒鷹精久郎に渡して、言った。

「その中で、霞流を使い、書画に眼のある者を捜すのですね」

 黒鷹精久郎は、書付を見て、塚原千秋に、言った。

「そうか、千秋殿も出られるのか」

 塚原千秋が、聞いた。

「何事です?」

 黒鷹精久郎が聞いた。

「霞流を使う者を見極められますか? 

 修行の一つ。

 私を稽古台にするより、よほどいい」



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