第二部 巖頭孤鷹 二
黒鷹精久郎の一日は、寅三つの刻に始まる。
瑞竹寺裏手の井戸で、水を浴びる。
三貫の鉄棒を、五百回振る。
なんといっても、膂力がなければ、話しにならない。
その後、居合いを、やはり五百回。
その次は、一日ごとに、変える。
槍を刺す日。
矢を射る日。
いずれにしても三百回ずつ。
これで朝の鍛錬が終わる。
もう一度、井戸で水を浴びる。
寺の下女が、その横を通り、食事を、念仏堂へ運ぶ。
食事は、玄米と漬物だけであった。
食事の後の行動は、二つに分かれる。
一つは、江戸の町へ出ること。
武術の名人を捜し歩くのだ。
もう一つは、読書である。
万巻の書を読まなければならない。
正法寺を訪ねた次の日の行動は、別なものになった。
食事をしているとき、外で、足音がした。
黒鷹精久郎は、左脇に大刀があることを、確認した。
「失礼します」
入ってきたのは、芥川行蔵であった。
同心である。
ある事件がきっかけとなり、知り合いになったのだ。
芥川行蔵は、対座して、言った。
「挨拶代わりに、いつもの台詞。尼子秘帳を頂戴出来ませんか?」
「断る」
「御公儀に逆らうことになりますよ」
「それで挨拶はすんだろう。すぐ食事を終わらせるから、待ってくれ」
「いいですよ。死体は待ってくれますから」
黒鷹精久郎は、漬物の最後の一切れを食べて、白湯を飲んだ。
箱善を脇に移す。
芥川行蔵は、感心した声で、言った。
「黒鷹さんのこの生活、御公儀に話したら、泣いて喜びますよ。
いくら改革令を出しても、みんな、贅沢を止めないんだもん。
でも、そうすると、御公儀は尼子秘帳の事も知ることになる」
「それで、今日は、何か用があるのか? さきほど、死体、と言っていたが」
「実は、正法寺の月仙和尚が殺されました」
「なんだと」
黒鷹精久郎と芥川行蔵は、まだ泥濘のある道を、正法寺へ行った。
正法寺への道すがらは、二人とも無言であった。
芥川行蔵としては、死体を見せるまで、事件のことは言わないつもりであった。
黒鷹精久郎も、何も聞かない。
相手が黒鷹精久郎でなければ、芥川行蔵は、事件に関係しない、いろいろな話を出したであろう。
もともと話し好きなのである。
だが、黒鷹精久郎に対しては、無駄口をたたいてはならない、ということが分かっていた。
正法寺の本堂に、白布に覆われた死体が置いてあった。
数人の目明かしが、死体を守っていた。
芥川行蔵は、白布を持ち上げて、黒鷹精久郎に死体を見せた。
芥川行蔵が、さすがに真剣な眼差しで、黒鷹精久郎に、聞いた。
「どうです。この斬り方」
「座って向かい合っているとき、抜き打ちで斬られたな」
「仕事柄、いろいろな流派を知っているつもりですが、この斬り方は、初めてです」
芥川行蔵が、続けた。
「月仙和尚は、かなりの使い手だったんでしょう?」
「生半可な町道場の免許皆伝では、太刀打ち出来ない」
「それが、一刀のもとに斬られているんですよ。こちらへ」
芥川行蔵は、白布を元に戻し、本堂を出て行った。
その後を、黒鷹精久郎が続く。
一人の目明かしが、黒鷹精久郎の後に続いた。
廊下を歩きながら、芥川行蔵が、言った。
「黒鷹さんなら、どういう流派の者が斬ったのか、見当が付くんじゃありませんか」
黒鷹精久郎は、少し考えてから、言った。
「居合に霞流というのがあるが。おそらく、それだろう。流派を知りたくて、ここまで連れてきたのか」
「それだけじゃありません。和尚の生きた姿を見ているのは、黒鷹さんが最後なんです」
「ふうん」
「寺の小僧の話では、黒鷹さんが帰ってから、誰も和尚の姿を見ていない」
芥川行蔵は、客間の襖を開けながら、続けた。
「夜の読経に本堂に来ないので、様子を見に行くと……」
芥川行蔵は、客間に入りながら、さらに続けた。
「……、斬られていた」
黒鷹精久郎も、部屋へ入った。
つい昨日、月仙和尚と対座した部屋である。
畳には、黒い染みが付いていた。
血の跡である。
黒鷹精久郎は、黒い染みを見て、それから、部屋全体を見回した。
芥川行蔵は、黙って、黒鷹精久郎を見ている。
黒鷹精久郎は、芥川行蔵を見て、言った。
「まさか、おぬし、私が斬ったと思っているのか?」
芥川行蔵は、笑い顔で、言った。
「黒鷹さんも、冗談を言うようになりましたか」
黒鷹精久郎は、何も答えずに、天袋を見た。
天袋を開ける。
中は、空であった。
芥川行蔵が、聞いた。
「何か、気が付いたことでもありますか?」
黒鷹精久郎が、言った。
「小僧を呼んでもらえないか」
芥川行蔵が、目明かしに、短く言った。
「おい」
目明かしは、「へい」と答えて、出て行った。
黒鷹精久郎が、言った。
「質問がある」
「何でしょうか?」
「これは寺社奉行の管轄だ。なぜ、町方同心のおぬしが、ここにいる」
芥川行蔵は、薄笑いを浮かべて、答えた。
「近頃、物価が上がるばかりで。寺社奉行を手伝うと礼金が出るのです」
「なるほど。とりあえずその答えを受け取っておこう」
目明かしに連れられて、小僧が入ってきた。
「あのう……、お呼びだそうで……」
黒鷹精久郎が、小僧に聞いた。
「この寺で、何か盗られた物はないか?」
「それは、先ほど、こちらの芥川様にも申し上げましたが、どの部屋にも異常はありません。蔵の鍵もそのままで」
黒鷹精久郎は、天袋を指さして、言った。
「ここに掛け軸が入っていたはずなのだが」
「私は存じません」
「一昨日、巴屋が来ただろう?」
芥川行蔵は、目明かしと顔を見合わせた。
二人とも、驚いているようだ。
小僧が、答えた。
「それも存じません。庫裏の大掃除で、ずっと庫裏におりました」
「昨日は?」
「やはり、庫裏の掃除で、一日を過ごしておりました」
「誰も、見かけなかったのか」
「朝、黒鷹様を見ただけでございます」
「分かった。ご苦労だった」
小僧が、出て行った。
芥川行蔵が、目明かしに、言った。
「寺の他の者たちに、巴屋のことを確かめろ」
「分かりやした」
目明かしが、駆け出して行った。
黒鷹精久郎が、聞いた。
「どうしたんだ?」
「どうやら、町方の出番になりました。巴屋も、昨日、殺されました」
「そうか……」
「店の近くの林の中で見つかりました。胸を一突きで」
「何も盗られていない?」
「ええ」
「掛け軸のことを聞いて、正法寺にあると、答を引き出したのだな」
「それで、正法寺に来て、和尚に会った。話の途中で、居合で斬り、掛け軸を盗った、というわけですか」
「巴屋の番頭と話したいが」
「手伝っていただけるんですね」
「五両のためだ」
「え? 寺社方から貰う礼金は一両ですよ。五両なんて、とても差し上げられない」
「私の五両を取り返すのだ」
日本橋北内神田両国浜町は、町屋の町である。
大名上屋敷や旗本屋敷もあるのだが、圧倒的に町屋が多い。
そして、筋違御門から浅草御門までの柳原通りには、古着屋が並んでいる。
古着屋に囲まれて、巴屋があった。
間口が五間で、小振りな建看板に《書画骨董商 巴屋八郎右衛門》とある。
店は閉じていた。
主人が殺されて、まだ日も浅い。
商いどころではないのだ。
板戸が閉まって薄暗い店に、黒鷹精久郎と芥川行蔵が座っていた。
応対しているのは、古参の番頭である。
番頭が、黒鷹精久郎の質問に、答えた。
「はい、旦那様は、宮本武蔵が描いたのに間違いない、と言っておられました」
「その掛け軸を、誰か、武士に見せたそうだが……」
「そのようでございます」
「知らないのか?」
「ちょうど、お得意様へ茶道具を届けておりました。
帰りまして、旦那様から聞いたのでございます。
そのお武家様は、十両は高すぎる、まあ、金の工面が出来たら、考えてみよう、とおっしゃったそうでございます。
それで手前どもが、正法寺の月仙様なら、即金でお買いになるかもしれない、と申し上げたのでございます。
月仙様は、剣術もお出来になりますから」
「その武士の事だが、巴屋は、何も言わなかったか?
どの家中の者とか、国なまりがあったとか」
「何も……。
ああ、そうだ。
松平様の剣術試合に出られるお人が、宮本武蔵の絵を即金で買わないとは情けない、と旦那様は申しておりました」
「もう一つ聞く。その掛け軸だが……、誰が売りに来たんだ?」
「さるお大名様から出たものでございます。他の書画骨董と一緒に」
「どこの国だ?」
「それは、その……。商売の事は、ちょっと……」
芥川行蔵が、番頭を睨んで、脅した。
「おい、これは御用の筋だぞ。しかも、正法寺の和尚の殺しも関わっている。
なんなら、寺社奉行を通そうか?」
「いいえ、とんでもございません。はい、分かりました。そのう……、萩様で……」
黒鷹精久郎と芥川行蔵は、顔を見合わせた。
巴屋を出た二人は、八ツ小路へと向かって歩いていた。
甍には、まだ雪がある。
晴れてはいるが、風がある。
風にゆれる柳の木が、風の冷たさを見せていた。
黒鷹精久郎は、そういった季節感には無頓着に、歩いている。
芥川行蔵も、柳には、眼を呉れなかった。
実は、芥川行蔵は、俳諧を作っていた。
早春の雪景色。
だが、黒鷹精久郎の前では、それを出しても仕方がない。
芥川行蔵が、言った。
「意外な所で萩三十七万石が出ましたな」
黒鷹精久郎が、言った。
「意外ではないかもしれない。芥川さん」
「はい?」
「剣術試合があるのか?」
芥川行蔵が、驚いたように、言った。
「なんだ、知らなかったんですか?」
「うむ」
「まあ、黒鷹さんは、そういった事から、独り、離れているから」
黒鷹精久郎は、何も、言わない。
芥川行蔵が、続けて、言った。
「松平肥後守様が、主立った道場へ声をかけたんですよ。江戸中から、腕自慢が集まるでしょうね」
「その試合に出る者を……」
「まとめます。剣術の流派も調べて。霞流居合、ですな」
「霞流居合を使うとは名乗らない。あれは、人に知られないことを身上としている」
「でも、黒鷹さんなら、分かる。しかし、その侍、興味がないふりをして、宮本武蔵の絵を、ただで手に入れたんですな。人を殺してまで。とんでもねぇ奴だ」
「だが、眼は見える。巴屋は、眼が見えなかった」




