第一部 尼子秘帳 一
黒鷹精久郎は、ゆっくりと歩いていた。
川崎から品川の宿へ向かう東海道である。
晴れているが雲がかかっている。
これから天気が崩れるようだ。
風がある。
青い海の上には白い帆を張った回船が動いている。
黒鷹精久郎は立ち止まり、空を見上げた。
太陽の位置を見て時刻を確認した。
約束の刻限には、十分、間に合うだろう。
海を見物するかのように顔を左右にまわした。
顔をまわしながら、さりげなく見る。
行商人が歩いてくるのを確認する。
六郷川の渡しで、いっしょになった行商人であった。
行商人にしては旅の埃が少ない。
行商人にしては歩調が遅い。
黒鷹精久郎の前に出ようとしない。
つけているのではないか、という気がするのだ。
黒鷹精久郎は些細なことにも気を抜かない。
ためしてみよう、と思った。
どうせ時間は十分にあるのだ。
茶屋に入った。
看板には、『大当利』、『まる漬』とある。
老婆が出てきた。
「いらっしゃいませ」
「うむ」
「名物、まる漬でよろしゅうございますか?」
黒鷹精久郎は、頷いて、縁台に腰掛けた。
老婆は、この茶屋で二十年を過ごしていた。
二十年間、旅人を見ていたのである。
旅人を見る目は確かであった。
その目で黒鷹精久郎を値踏みした。
袖口の細い小袖に踏込袴。
共を連れない一人旅。
したがって公用ではない。
だが浪人とも見えない。
挙措が堂々としているのだ。
目つきが鋭い。
刀には柄袋をしていない。
おそらく武者修行の者だ。
いついかなる時にも油断をしない武芸者、と老婆は結論した。
強いのだろうか。
背はそれほど高くない。
痩身である。
一見した限りでは豪傑ではないようだ。
それ以上は老婆には分からなかった。
分かろうとする気もない。
侍が強かろうが弱かろうが、それは関係ない。
老婆が関心をもつのは金だけである。
そして、この侍は金を持ち歩いている、と結論した。
為替を使わず財布に金を入れているだろう、と思った。
黒鷹精久郎は、停泊している回船を、ぼんやりとした表情で見ていた。
表情は消しているが、目の端で街道を見ている。
行商人が通り過ぎた。
行商人は、通り過ぎるときにチラリと黒鷹精久郎を見た。
黒鷹精久郎は動きもしない。
小半時、茶を飲み、漬物を食べた。
海を見る。
あの地平線の彼方に何があるのか。
地球が丸いのは分かっている。
だが、どのくらいの大きさなのか。
空を見る。
空の彼方には何があるのか。
鳥ならば、どこまでも登っていけるのだろう。
太陽までもたどり着けるのだろう。
太陽の位置から時刻を読む。
そろそろ、いいだろう。
老婆の値踏みは正しかった。
ずっしりと重い財布を出し茶銭を置いた。
高なわてを通る。
もうすぐ大木戸札の辻で、それで江戸に入るのだ。
人通りが多くなる。
在郷の人々に加え、泉岳寺の僧侶たちが多数いる。
さらに、江戸見物の一行が行き来している。
これから江戸へ向かう一行も、田舎へ帰る一行もある。
黒鷹精久郎は、人々を避けるため、左へ寄った。
混雑した人混みは危険だ。
左へ寄った黒鷹精久郎の脇を通り過ぎようとした者がいる。
あの行商人であった。
行商人は、通り過ぎざま、手を黒鷹精久郎の懐に入れた。
そして、財布を抜き取り、そのまま歩き去る――。
歩き去るはずであったが、その手は、黒鷹精久郎に捕まれた。
「あっ」
黒鷹精久郎は、行商人の手首を掴んだまま、道を折れた。
街道の裏手の林に入る。
行商人の格好をしたスリは震え上がっていた。
保土ヶ谷と品川の間を仕事場とするスリなのである。
この稼業に入って十年、失敗したことはなかった。
黒鷹精久郎に目をつけたのは六郷川の渡しで舟を待っている時であった。
スリの眼力からすれば、この侍は財布に金を入れている、と読めた。
茶屋の老婆と同じ結論である。
しかも、目つきは鋭いが、大柄な侍ではない。
そこそこ剣術の技量があるかもしれないが道場剣術の技量だけだろう。
早業ならば修羅場で磨いたスリの技量の方が上だ。
こうしたことで黒鷹精久郎を狙ったのだ。
だが、剣術の技量を見抜く眼力は未熟であった。
黒鷹精久郎は、手首を掴んだままである。
「お、お侍様、勘弁して下さい」
黒鷹精久郎は、何も言わない。
「ほんの出来心なんです」
黒鷹精久郎は、何も言わない。
「これからは、心を入れ替えますから」
黒鷹精久郎は、何も言わない。
「誓って、正直者になりますから」
「俺に誓う? お門違いだ」
黒鷹精久郎は、スリの手首を折った。
スリは、悲鳴を上げた。
黒鷹精久郎は、スリの手を離し、スリの懐に手を入れた。
スリの財布を取り出す。
財布には、小判が一枚、一朱銀が三枚、それに数枚の一文銭が入っていた。
小判だけを取り出し、財布を、うずくまるスリの頭上に投げた。
小判を懐に入れて街道へ戻った。
空に雲がかかってきた。