目覚め
翌朝、アリオンは薪がはぜる音で目を覚ました。
オークの木の内部に作られた居住空間は、昨夜とは違って穏やかな雰囲気に包まれている。暖炉の炎が壁面に踊る影を映し、簡素ながらも居心地の良い空間を演出していた。
アリオンは寝床から身を起こしながら、昨夜の出来事を思い返していた。左肩の傷はドルイドの治療魔法である程度癒えているが、まだ痛みが残っている。
「あの少女は……」
彼は部屋の隅に目を向けた。そこには昨夜運び込んだ少女が、毛布にくるまって横たわっている。あの巨大な鎌と共に。鎌は相変わらず禍々しい気配を放っていた。
「まだ眠っているのか」
アリオンは静かに立ち上がり、少女の様子を確認した。呼吸は安定しており、熱もない。傷も思ったより軽いようで、ほとんど癒えている。
「エルフの回復力、か……?」
その時だった。
少女の瞼がゆっくりと開いた。
灰色の瞳が天井を見つめ、やがてアリオンの顔を捉える。しかし彼女は何も言わなかった。ただ静かに起き上がり、周囲を見回すだけである。
「気がついたか」
アリオンが声をかけても、少女は無言のままだった。昨夜のクレイワーム戦での激しさが嘘のように、再び無表情な人形のような状態に戻っている。
「君は一体何者だ? なぜあのような場所で魔物と戦っていた?」
アリオンは問いかけた。少女はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「わからない」
それだけだった。声は透明で美しいが、どこか空虚な響きがある。
「わからないとは? 記憶がないのか?」
「……わからない」
同じ答えが返ってきた。アリオンは困惑した。
「では、君の名前は? どこから来たのだ?」
「……わからない」
三度目の同じ答え。少女は本当に何も覚えていないようだった。
「これは困ったな」
アリオンは頭を掻いた。名前もわからぬ少女をどう呼べばよいものか。
「そうだな……君は灰色エルフのようだから」
アリオンはエルフ語で「灰色エルフ」を意味する言葉を口にした。
「『エゼドレ・エレイン』……略して『エゼ』と呼ばせてもらおう」
少女は首を傾げた。まるでエルフ語が理解できないかのような反応である。
「君はエルフ語がわからないのか?」
アリオンは驚いた。灰色エルフでありながらエルフ語を解さないなど、聞いたことがない。
「『アー・エレス・エン・エル』(おまえは森の民か?)」
アリオンがエルフ語で問いかけても、少女は困惑の表情を浮かべるだけだった。
「こいつは本当にエルフなのか?」
疑念が頭をもたげる。確かに容姿はエルフのものだが、エルフ語を理解しないエルフなど存在するのだろうか。それに、あの異常な戦闘能力といい、謎だらけである。
アリオンの視線が、部屋の隅に置かれた巨大な鎌に向いた。
「それにしても、あの武器は何なのだ」
少女――エゼと名付けた彼女――の視線も鎌に向いた。瞬間、彼女の無表情な顔に、僅かな変化が現れた。
まるで何かを思い出そうとするような、困惑にも似た表情。そして――
「……いけない」
小さく呟いた。
「何がいけないのだ?」
「……デヴィル」
エゼが呟いた言葉に、アリオンは眉をひそめた。
「デヴィル? 地獄の悪魔のことか?」
その言葉を聞いた瞬間、エゼの瞳に初めて強い感情が宿った。怒り――昨夜クレイワーム戦で見せたのと同じ、激しい怒りの炎である。
「……許せない」
静かだが、確実な怒りを込めて彼女は呟いた。なぜかはわからないが、デヴィルという存在に対して、彼女は深い憎悪を抱いているようだった。
「君はデヴィルに何か恨みでもあるのか?」
「……わからない。でも、許せない」
エゼの答えは曖昧だった。記憶がないのに、なぜデヴィルを憎むのか。その理由さえ彼女自身にはわからないのだろう。
「そうか……」
アリオンは考え込んだ。記憶を失った少女、エルフ語を解さないエルフ、呪いの武器、そしてデヴィルへの憎悪。
「とりあえず、デヴィルのことなら教会に行けばよいか」
アリオンは提案した。ナプサタの町には小さいながらも教会があり、そこには知識豊富なクレリックがいる。デヴィルについて何か知っているかもしれない。
「教会……」
エゼが呟いた。その言葉に、何か引っかかるものがあるのか、僅かに眉をひそめる。
「どうした? 教会に何か問題でもあるのか?」
「……わからない」
またしても同じ答えだった。しかし、その表情には明らかに不安の色が浮かんでいる。
「まあ、とりあえず行ってみよう。このまま君のことで悩んでいても仕方がない」
アリオンは立ち上がった。
「それに、あの鎌のことも気になる。普通の武器ではないだろう、あれは」
エゼの手が、反射的に鎌の方に伸びた。まるで鎌なしでは不安でたまらないとでも言うように。
「呪いの武器かもしれんな。教会のクレリックなら、そうしたことにも詳しいはずだ」
アリオンは服を整えながら言った。
「準備ができたら出発しよう。ナプサタの町まではそれほど遠くない」
エゼは黙って頷いた。言葉は少ないが、彼女もデヴィルについて知りたがっているようだった。
「まあ、なんとかなるか」
アリオンは口癖を呟きながら、長い一日の始まりを予感していた。