第八章『声にならなかった愛』
澄音へ
君にだけは、渡すつもりがなかった。
でも、言葉にならなかったまま、僕の中で腐ってしまうくらいなら、ここに置いておこうと思う。いつか、どこかで、君の心がこれを拾ってくれるなら、それだけでいい。
僕は、生まれたときから耳が聴こえなかった。
それを言うたび、「大変だったね」とか、「すごいね」とか、まるで反射のように返ってくる言葉ばかりだった。
でも、本当はずっと、その「すごいね」に殺されてきた。
何をしても、褒められるのは“結果”じゃない。
「耳が聴こえないのに」っていう“前置き”付きでしか、僕は評価されなかった。
ピアノを習ったときも、水泳で賞をもらったときも、作文で入賞したときも、どんなときも、僕そのものじゃなくて、“ハンデを乗り越えた姿”に拍手が飛んだ。
だからだと思う。
誰かの「普通」になりたかった。
ただの“ひとりの人間”として、僕を見てくれる誰かがほしかった。
――そして、君が現れた。
君の沈黙には、重さがなかった。君は僕を“特別”としてじゃなく、“となりにいる人間”として、見てくれてた。
だからこそ、君にだけは見せたくなかった。
“すごいね”の皮をかぶったままの、僕の、こんなに小さくて臆病な心を。
宇宙飛行士になりたいなんて、言葉だけは夢みたいだったけど、本当は違ったんだ。
ただ、“普通”のままじゃ、君のとなりに立つ資格なんてないと思ってた。
君は僕よりずっと強かった。言葉がなくても人を安心させられる力があった。沈黙が、優しかった。
でも僕は、沈黙の中で、どんどん壊れていった。
君といると、幸せだった。でも同時に、君に見合う人間にならなきゃって、自分をどこかで責め続けてた。
夢の話をしたあの日、君が笑ったのを覚えてる。
否定じゃないって、わかってた。でもあのときの僕には、君が“遠くへ行かないで”って言ってくれるのを、ずっと待ってたんだ。
助けて、って。君にだけは、言いたかったのに。言えなかった。情けないくらいに。
僕が宇宙に行くのは、“逃げ”だった。夢なんかじゃなかった。
「音がない宇宙なら、僕は“普通”でいられる」
そんな言い訳にすがって、“君のいない未来”を選んだ。
ごめんね。ほんとうに、ごめん。
君と一緒に見たかった星も、君に聞いてもらいたかった鼓動も、もう全部、空に置いていく。
それでも、君には、生きてほしい。
生きてるって、つらいよね。
静かで、誰にも届かなくて、たったひとつの誤解が、何年も胸を裂く。
僕もずっと、そんな日々の中で、「聞こえないこと」と「誰にも伝わらないこと」の違いがわからなくなってた。
でもそれでも、生きてる君が笑うたびに、僕は世界に許された気がしてた。
だから、どうか。
どんなに孤独でも、どんなに傷つけられても、君には、もう誰にも評価されなくてもいいから、君だけのために、君の命を生きてほしい。
僕がいなくなっても、君の耳に音は届かなくても、君の心には、きっとまだ誰かの言葉が触れられるから。
最後に。この気持ちだけは、どうしても言いたい。
愛してる。
夢よりも、空よりも、君がこの地上で呼吸していることが、僕にとっての、いちばんの願いだった。
澄音のすべてを、痛いくらい愛しています。
――遥