第六章『差し出された最後の手紙』
つぎの記憶は、どこか湿った空気の中にあった。空は曇り、窓の外では雨が降っていた。教室の中にいるのに、なぜか寒さが染み込んでくる。
私はまた、そこに立っていた。
そして、そこにも――彼がいた。
席に座ったまま、彼は何度も折り直されたような紙を見つめていた。指先は落ち着かず、唇が、言葉にならない言葉をくり返している。迷っていた。その紙を渡すべきかどうか。それとも、心の奥にしまったままにするか。
記憶の中の私は、それに気づいていた。でも、目を逸らした。
「なんか今日、ずっと変だよ」
そう言って、わざと冗談っぽく笑った。
怖かったのだ。“なにかが終わる予感”が、怖くてたまらなかった。
彼は笑った。いつもどおりの、優しい笑顔。でもその目は、ほんの少しだけ、濡れていた。
「ねえ、これ……」
彼が紙を差し出しかけた、その瞬間。私は立ち上がって、背を向けた。
「あとで見る。今、忙しいから。」
嘘だった。忙しくなんてなかった。ただ、受け取るのが、怖かった。あの紙には、きっと彼の最後の勇気が詰まっていた。それを、私は、受け取らなかった。差し出された言葉も、心も、全部、置き去りにしてしまった。
そして、その翌日――彼はいなくなった。
あれが、最後のチャンスだったのだ。
彼の手が、震えていたこと。声が、少しだけ揺れていたこと。目が、何かに怯えていたこと。ぜんぶ、わかっていた。なのに私は、その手紙を受け取らなかった。
“名前を呼べなかった”ことよりも、“渡された言葉を、受け取れなかった”ことのほうが、ずっと重く、深く、私を壊していた。
今、この記憶の中でも、彼はまた、ひとりきりであの紙を見つめていた。何度もたたみ直された、言葉の結晶。
私はただ、見ていることしかできない。過去は変わらない。だから、痛む。だから、息が詰まる。
でも。
もしも。
あの紙を、今度こそ受け取れる未来があるのなら――
私は、手を伸ばしたいと思った。