第四章『泣いていた、きみ』
扉をくぐった瞬間、足元に“音”が落ちた気がした。音がない世界で生きてきたはずなのに。それでも、確かに聴こえた。なつかしい足音。誰かが、遠くで名前を呼んでいる気配。目を開けると、そこは校舎の裏だった。夕暮れの光が、赤く地面を染めている。あの日と、まったく同じ色だった。私は気づいた。――ここは、あの時の記憶だ。彼が、初めて人前で泣いた日の。
彼は壁にもたれかかって、うずくまるように座っていた。制服の裾は少し汚れていて、その肩は、ゆっくり震えていた。近づこうとしても、私は触れられない。これは“過去”の断片。ただ見つめることしかできない。誰にも気づかれず、誰にも頼れず、彼は静かに泣いていた。手話も、声も、その場には何もなかった。
私は思い出した。――このあと、私が彼を見つけて、ただ隣に座って、なにも言わずに手を差し出したんだった。慰め方がわからなかったから。でもそれでも、彼は私の手を握って、かすかに笑ったんだ。
…はずだった。けれど、記憶の中の彼は、私の手を見て、首をふった。「ぼくなんかより、もっといい人、いっぱい、いるよ。」声なき声が、胸の奥で響いた。
彼は、あの時からもう、自分を“消えかけた存在”だと思っていたのかもしれない。
私は、その場に膝をついた。今の私なら、あのとき言葉にできなかった気持ちを、伝えられる気がした。
――あなたは、消えていい人なんかじゃない。
――私は、あなたが泣いてくれてうれしかったんだよ。
――だってその時、あなたがほんとうに“ここにいた”って、思えたから。
でもその想いは、記憶の中には届かない。彼は涙をぬぐって立ち上がり、夕暮れの向こうに、背を向けて歩いていった。
私はその場に、静かに取り残された。
まるで、この世界そのものに、“許されていない”みたいだった。