第三章 『願いの始まり』
――しん、としたまま、何も起きなかった。
私の願いは、この空にも、この地にも、どこにも届かなかったみたいだった。やっぱり奇跡なんて、物語の中にしかないんだ。
そう思ったときだった。空の色が、ゆっくりと変わりはじめた。真っ白だった天国の景色が、すこしずつ、色を取り戻していく。青でも、灰でもない、どこか懐かしい空の色。木の葉が揺れた気がした。風が、髪を撫でたような気もした。その風の中に、誰かの足音が混じっていた。小さな足音。土の上を、ゆっくりと踏みしめるような音。私は顔を上げる。
そこにいたのは、ひとりの少年だった。年齢も、表情も、うまく掴めない。ただ、どこか、透けているような存在だった。彼はまっすぐに私を見て、口を動かした。音はない。でも、その言葉は、まるで直接、心に届くみたいだった。
「ここは、“願った者だけが辿り着ける場所”だよ。」
私は何も言えなかった。声の出し方さえ、もう忘れてしまったみたいだった。少年はつづける。
「きみの願いは、ちゃんと届いてる。でも、その願いを叶えるには――いちど、すべてをやり直さなきゃいけない。」
“すべてをやり直す”その言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも希望に似ていた。私は、彼の顔を見た。それでも、何かを信じたくなっていた。
「戻れるの?」心の中で、そう問いかけたつもりだった。少年は、ふっと優しく笑って、うなずいた。
「戻れるよ。でも、“ただ戻るだけ”じゃ、何も変わらない。君が選び直さなきゃいけない。彼の夢を、今度こそ笑わずに――隣で、信じてあげられるなら。」
風が吹いた。その風はどこか、彼が手を握ってくれたときの体温に似ていた。私は、目を閉じた。
そうだ。今度こそ、わたしは――
第三章・後半『扉のむこう』
「戻る方法が、あるの?」そう問いかけたつもりだった。声は出ていなかった。でも少年には、聞こえたらしかった。彼は、コクリと小さく頷いた。
「あるよ。でも――簡単じゃない。」
彼のまわりの空気が、すこしだけ変わった。さっきまでの風が止み、時間さえも止まったように思えた。少年は一歩、私に近づくと、両手を合わせ、静かに目を閉じた。
すると、私たちの前に、小さな“扉”が現れた。白くて、歪な形の扉。まるで、どこにも属していないような、存在だけが浮いている。「この扉の先にあるのは、“記憶の深層”。きみの中に眠っていた時間が、断片になって流れてる。そこを通って、過去の“あの瞬間”まで戻るんだ。」
私は息を呑んだ。目を凝らしても、扉の奥は真っ暗で、何も見えなかった。「でもね――」少年は少し、目を伏せて言った。
「その道の途中で“あなたが壊してしまった想い”たちが、姿を変えて現れる。傷つけてしまった彼の気持ち、見ないふりをした瞬間、言えなかったごめんねや、ありがとう。それを全部、超えていかないと、本当の“彼”のいる場所には辿り着けない。」
私は喉がつまったように、言葉を失った。壊したものを、見に行く。壊したままの自分を、抱きしめ直す。その重さが、身体にのしかかってくる。
でも――それでも、行きたいと思った。今度こそ、ちゃんとあなたの隣に立つために。夢を、笑わずに信じられる私になるために。
私は一歩、扉に向かって歩いた。
扉の向こうに、まだあなたがいるなら。