【最終回】第十章『まだ、間に合いますか。』―澄音編
扉が崩れたあと、私はもう、何も持っていなかった。
名前も、声も、過去も。
ただ、私という輪郭のなかに「どうして」が永遠に反響しているだけだった。
その“空洞”に、再び足音が響いた。
あの少年だった。
……でも、もう私は騙されなかった。
やさしい仮面の奥に、どれほど冷たいものが詰まっているかを、私は知っている。
「まだ、見せてあげてない世界があるよ」
彼は、にこりと笑った。
「もしも、君が“彼を愛さなかったら”どうなっていたか」
「興味、あるよね?」
私は、目を伏せたまま頷いていた。
見たくなんて、ない。
でも――知りたかった。
私が彼を壊した証拠を、見たかった。
**
世界が切り替わる。
そこには、遥がいた。
本屋のレジで笑っていた。
小さな女の子に読み聞かせをしていた。
午後の光のなかで、猫を撫でていた。
誰かと並んで、コーヒーを淹れていた。
楽しそうだった。
あたたかそうだった。
私の影なんて、どこにもなかった。
**
「この世界の彼は、君と出会っていない」
少年が言った。
「君の沈黙に慰められることもなかったし、君に夢を笑われることもなかった」
「彼は、穏やかに老いて、好きな本に囲まれて、“普通”に、生きて、死んでいった」
画面のなかの遥は、誰かと手をつないで、小さな子どもを見守っていた。
私は、言葉を失った。
**
「君が“愛さなければ”、彼は、壊れなかったんだよ」
その言葉が、私の内臓を裂いた。
「君が夢を笑った日、彼は初めて、自分を嫌いになった」
「手紙を受け取らなかった日、彼は最後の希望を失った」
「“愛してる”を口にしなかった君が、彼の未来を殺した」
**
涙は出なかった。
その代わり、私という器が音を立てて崩れていく音がした。
「愛は救いになるって、誰が言ったんだろうね?」
「君の愛は、毒だった。君が手を伸ばしたことで、彼は二度死んだ」
「君が“生きていてほしい”と願われたのは、“自分の死を一生背負わせるため”だった」
私は、声を出そうとした。
でも、声が出なかった。
その言葉は、どこにも繋がっていなかった。
私は、遥を愛して、遥を壊した。
それが、事実だった。
**
少年は最後に、こう言った。
「この世界の遥は、誰も壊さずに死んでいった」
「そして、君は――」
「彼にとって、 “壊されてしまった未来”の、唯一の原因だった」
**
世界が閉じていく。
遥の笑顔も、光も、音もすべて、静かに、確実に、目の前から消えていった。
私は、立っていられなかった。
でも、倒れても、誰も支えてはくれなかった。
ここは、誰も壊さずに済む世界。
そして、私が存在してはいけなかった世界。
**
ねえ、遥。
もしも、あなたの願いが“生きていてほしい”だったのなら――
私はそれに、一生かけて、背中を向けるね。
“あなたを愛してしまったこと”を、一秒たりとも許さないために。
それが、私にできる、最後の愛のかたち。
**
私はいまも、あなたのいない世界で、あなたを壊したという罪だけを抱えて生きていく。
終わりのないまま。
**
ねえ、神様。
私が愛してしまったことも、
この罪も、
すべてなかったことにはできないけれど――
それでも、
それでも、、
『まだ、間に合いますか。』
はじめまして。最近20歳になりました、真田くうと申します。
私の記念すべき一作目、『まだ、間に合いますか。』を最後まで読んでくださり本当にありがとうございます。
『まだ、間に合いますか。』
このたったひとつの問いのために、
私は、澄音という少女と、遥という少年の物語を紡ぎました。
これは、愛の物語です。
でもそれは、報われる愛ではありません。
許される愛でも、正しい愛でもない。
それでも、愛してしまったふたりの、
“もしも”を抱えて終わる物語です。
**
君に出会わなければ、
君に出会わなければよかった――
そう思った瞬間が、人生にあったことはありますか?
でも、
出会ってしまったからこそ、
その人の不在が、世界のかたちを変えてしまったことは、ありませんか?
遥は、
“普通になりたかった”だけの少年でした。
誰かの期待に応えたいわけじゃない。
ただ、誰かと、等しく隣にいたかった。
澄音は、
言葉を持たない少女でした。
それでも、伝えたかった。
たったひとこと、「好きだよ」と。
けれどふたりは、
その“たったひとこと”を、
ほんの少しの怖さや、
ほんの少しのタイミングのズレで、
どうしても届けることができなかった。
**
この物語には、救いがありません。
でも、だからこそ、
私はこの問いを最後に残しました。
「まだ、間に合いますか。」
これは澄音の祈りであり、
遥が最後に手放した希望であり、
そしてたぶん、
物語を読み終えたあなた自身の、
心のどこかが覚えている言葉かもしれません。
**
人は、誰かを愛してしまう生き物です。
ときにそれは、祝福になり、
ときにそれは、呪いになります。
大切な人を壊してしまうほどに、
その人を想いすぎてしまうこともあります。
それでも私は、この物語を通して、
「間に合わなかった愛」にも意味があったと、
どこかで信じていたいのです。
**
もしあなたにも、
届かなかった“たったひとこと”があるのなら。
飲み込んでしまった後悔や、
失ってしまった温もりがあるのなら。
この物語が、
あなたのその痛みに、そっと寄り添えますように。
**
ねえ、神様。
声がほんのすこし遅れただけで、
たった一歩、踏み出せなかっただけで、
それだけで、人は誰かを壊してしまうんです。
あの子たちは、
ただ、愛してしまっただけでした。
その手を離したくなかっただけでした。
誰かの未来を奪うほど、
必死に、
不器用に、
ただ、好きだっただけでした。
だから、どうか――
この想いが、
こんなにも遅れてしまった今でも。
まだ、
……まだ、
間に合いますか。