第十章『まだ、間に合いますか。』―遥編
目を開けたとき、そこには誰もいなかった。
音がない。風もない。
自分が立っている場所さえ、確かではなかった。
ただ、わかる。
ここが、生者の世界ではないということだけは、確かに。
俺は、死んだんだ。
――そして、君は、生きてる。
……そう願っていた。
でも、それは“願えば叶う”ようなものじゃなかった。
この場所に来た瞬間、ある存在が現れた。
人とも、影ともつかないそのものは、あたたかくも冷たくもない声で、ただ告げた。
「君は、選ばれた存在です」
「ここは、誰か一人を選ぶための場所」
「生きる資格を持つのは、一人だけです」
「選ばれなかった者は、いずれ全てを忘却し、還元されます」
そして、もう一度訊かれた。
「君は、彼女を生かしますか?」
何を言っているのか、理解できなかった。
生かしたいに決まってる。
でも、それは“そう思うだけ”では許されないらしい。
「彼女を生かすには、彼女を忘れなければなりません」
……なんで。
なんでそんなルールがあるんだ。愛している人を、生かしたいのに。どうしてそのために、思い出を捨てなきゃいけないんだ。
「記憶と命は共存できません」
「想い続けることは、現世への干渉を生みます」
「干渉は、彼女を“生きたまま死なせる”」
「彼女の時間を動かしたいなら、君の中から消すしかない」
選べと言う。
君を生かすか、君を想い続けるか。
でもそれは、選択なんかじゃなかった。
俺に選べることなんか、最初から何もなかった。
だって、君に生きてほしいって、あの日、心から願ってしまったから。
だから、
俺は――君を消すことにした。
本当は、最後まで君の隣にいたかった。
ほんとうは、あの夜の続きを、何十年も君と生きたかった。
だけど。
もし、俺の記憶が君を傷つけるなら、もし、俺の想いが君を縛るなら――
俺が殺すよ。
誰にも手を汚させない。
君のことは、俺がこの手で、終わらせる。
そうして、君が誰かと出会って、誰かと笑って、誰かともう一度、生きてくれたら。
それが、俺にとっての救いだから。
……救われなくてもいい。報われなくても、君が笑うなら、それでいい。
だから、忘れます。君の名前も、君の声も、君が俺の人生にいてくれたすべてを。
全部、今から消していきます。
**
そして始まる、“忘却”の儀式。
何もされない。
ただ、静かに、記憶が剥がれていく。
剥がれるたびに、体の奥から、なにかが崩れていく音がした。
頭じゃない。心でもない。
もっと深い場所、魂の芯みたいな部分が――焼かれていく。
思い出したいのに、何を思い出したいのかすら、もうわからない。
けれど確かに、「何かを失った」という痛みだけが、焼き跡のように残っている。
最後に言った名前は、意味を持たないただの音になった。
**
……澄音。
誰の名前だった?
どうしてこの言葉が、こんなにも苦しい?
胸が詰まる。息ができない。
涙がこぼれる。理由もない。でも、止まらない。
誰かが、 誰かが、
俺のことを呼んでいたような気がする。
ずっと、そばにいてくれた気がする。
でも――名前が、思い出せない。
誰を、俺は、殺したんだっけ。
誰を、助けたつもりで、壊したんだっけ。
**
何年か、何世紀か、どれほどの時が流れたのかさえわからない。
名もない空間の中、俺は今もここで、ただ座っている。
この世界には始まりも終わりもない。
ただ、沈黙と、冷たい記憶のない涙だけがある。
誰も迎えにこない。誰も手を伸ばしてこない。
もう、言葉も要らなかった。誰とも話せない。
誰を思い出せばいいかもわからない。
けれど、ふと、目を閉じたとき、まぶたの裏に浮かぶ“気配”があった。
色も、形も、何もない。ただ、あたたかいような、さびしいような気がした。
それを見て、また涙がこぼれた。
思い出したかった。
思い出して、ごめんねって言いたかった。
けれど、もう、遅すぎた。
俺は、“誰か”を愛して、その人を、忘れることで殺した。
それだけが、この胸の奥の、焼け焦げた場所に残る、名前のない罪だった。
そしてそれを、永遠に抱えながら、誰にも呼ばれることなく、誰にも抱きしめられることなく、俺は今も、名前のないまま、記憶の温度だけを抱いて、永遠の喪失を、生きている。
終わりのないまま。