第九章『扉のむこうにいたのは』後半
私は、取っ手に手をかけた。
金色の光は、やさしかった。やさしすぎて、涙が出そうだった。遥のぬくもりに似ていた。
「生きていてほしい」――その言葉に似ていた。
私は、力を込めた。
――カチリ。
何かが、小さく外れた音がした。
だが、扉は開かなかった。
「……え?」
押した。もっと強く。肩をぶつけるようにして。
――動かない。
取っ手が、さっきより冷たかった。
温度が……奪われていく。
「なんで……? あれ……?」
声が震えた。焦りが胸をひっかいて、呼吸が浅くなっていく。血の気が引く感覚。胃の底に氷を流し込まれたような、異常な冷たさ。
何度も、何度も、私は扉を押した。
開かない。開かない。開かない。
「……お願い……!」
「無理だよ」
背後から、声がした。
甘い響きのまま、心の奥を裂くような冷たさを孕んだ声だった。
振り返った。
そこにいたのは、“あの少年”ではなかった。
顔は同じ。でも、瞳が空っぽだった。
「お疲れさま、澄音」
「最後まで、よく“信じてくれた”ね」
「どうして……開かないの……」
「どうして、って」
少年は小さく笑った。
「君、本気で行けると思ってたんだ?」
私は喉が詰まって言葉が出なかった。
「君の“救いたい”って気持ち、嘘じゃなかったと思うよ。でもね、澄音。この扉は“選ばれた人間”にしか開かないんだ」
「……選ばれた……?」
「そう。“選べなかった過去”を持たない人。“愛を伝えた人”。“夢を笑わなかった人”。――つまり、君じゃない人」
扉が、鈍く軋んだ。
それは拒絶の音だった。
「君は、遥の“最期の希望”にはなれなかった」
「その証拠に、君の手では、この扉は永遠に開かない」
私は必死に首を振った。
「私は……私は、愛してたのに……!」
「なら、なぜ笑った?夢を。遥の人生を。彼の、たったひとつの“自分らしさ”を、なぜ笑った?」
「怖かったから……!」
「君は、自分が置いていかれるのが怖かった。だから、遥の目を曇らせた。そのくせ、最後になって“愛してる”なんて、都合がよすぎる」
少年の声が変わった。優しさが剥がれ落ちて、芯にあった毒だけが、むき出しになった。
「君さ。遥の“死に際の後悔”でできてるんだよ、ぼく」
私は息を呑んだ。
「彼が死ぬ直前に願ったんだ。“澄音のせいじゃなければいいのに”って。でも、脳裏に浮かんだのは君だった。君の顔だった。笑った顔だった。黙って、目をそらした日々だった」
扉にしがみついた手が、力を失った。
「だからぼくは生まれた。遥の“憎しみと、未練と、絶望”を詰め込んだ結果として、君の前に立ってる」
「遥が……そんなこと……!」
「君は彼を殺した。夢を、手紙を、そして“愛してる”を殺した」
「彼が君に“生きていてほしい”と言ったのは、“せめて、自分の死を一生背負わせるため”だよ」
私は、その場に崩れた。
「これが報いだよ、澄音。君の後悔は、救いじゃない。ただの罰。そして、君にはもう“愛してる”を口にする権利すらない」
「……遥……!」
「その名前を叫べば叫ぶほど、遥の魂の中から、君は消えていく」
扉が、完全に崩れた。
取っ手は砕け、金の光は黒に変わり、塵になって、誰の記憶にも触れず、静かに溶けていった。
「ここが君の終着点。誰にも届かず、誰にも想われず、ただ、君が“君であること”を忘れていく場所」
私は、名前を呼んだ。
でも、もう“その名前”は、世界のどこにもなかった。
「――愛してる、遥」
その言葉さえ、届く前に消えていった。