◇ わずかな隙
ラムドのアルオーズ官房長官は、休みの日も、警備員しかいない政府議事堂の官房長官室にこもる。
持参した昼食も同じ部屋でとる。その後のやるべき作業は、たいして時間はかからなかった。
「さて、帰るか」
茶色のコートを着てハットをかぶる。リナに会うときの格好だ。伊達メガネは、リナのところへ行くときだけかけるようにしている。
カバンを片手に議事堂を出ようとする彼に、二人の警備員が敬礼する。
「お勤めご苦労様です」
「うん」
「お一人で帰られるのですか?」
「ああ。車の運転手は、休みでいないのでね。一般庶民といっしょにルートバスに乗るのも悪くないよ」
休みの日には、議事堂までの通勤手段にバスを利用するアルオーズである。
「官房長官、お気をつけて」
「うむ」
議事堂の敷地は広く、議事堂を出てから門のところまで二十メートルある。そこからさらに十五メートル進んだ場所に、議事堂敷地内への入口がある。
不審者の侵入を徹底して防ぐため、このように二段構えの構造にしているのだ。
議員が乗る車以外は、二つ目の門から中には入れない。
議事堂敷地の周辺道路は車両を止めることができないため、バスの停留所はずっと離れたところにある。
アルオーズは敷地を出て左へ曲がり、まっすぐ歩き続ける。交差点に出くわすと、目の前を横切る車道を直進し、しばらく歩くとバス停に着く。
けっこうな距離だ。彼自身は、良い運動になると思っている。
バスに乗り、目的地の場所で降りる。自宅まで十数メートルで、辺りに人影はない。
シグマッハにすれば、絶好の機会である。アルオーズの動向を調べてきた彼らは、このチャンスを逃さない。
自宅に向かって歩を進めるアルオーズの背後から、何者かがいきなり彼を羽交い締めにする。
「──っ?」
アルオーズは、気が動転する。まわりには誰もいなかったのに、後ろから襲いかかってきた輩は、どこからあらわれたのか。
鼻と口に、なにかを当てられた。
──これは……
睡眠薬だ。アルオーズは意識が遠のいてゆく。
屈強な男がアルオーズを羽交い締めにしたままでいると、後方から黒い車が来る。
男のそばに停止すると後部ドアが開き、男はアルオーズを車に乗せて、自分も乗り込んだ。もちろん、アルオーズのカバンも忘れない。
ドアが閉まると、車は何事もなかったかのように、その場から走り出す。
姿を消していたノーティスがレイズを解除し、アルオーズを拐った車を見とどける。
「やる気が起きないな、今回は」
彼は、不本意な想いを顔に浮かべながら、車が走った方向とは逆に歩を進めるのだった。
翌朝、ユードルトにある特機隊の基地に、ワイアード・ロディオン司令官から通信が入る。
それを受けた通信隊員のイレーナが、セシルにふり向いた。
「隊長、ロディオン司令官から連絡です」
セシルが応答する。
「ファーマインだ。こんな朝はやくから、なにを……」
ワイアードの焦ったような声が、セシルの言葉を途中で断った。
「ファーマイン、官房長官が誘拐された」
「え?」
「大至急、大統領官邸へ来てくれ」
「わかった」
セシルは、参謀のアストンに「あとは任せる」と告げると、自ら運転する車を飛ばして大統領官邸へ急いだ。
セシルが大統領官邸へ到着し、会議室に足をふみ入れる。
コの字型のテーブルの、ちょうど真ん中の席にレズリー大統領が座っている。彼女は、いつも以上に深刻な顔をしている。
その右側に、情報局長官のボルグと部下のオルトナが座り、大統領の左側にワイアードがいる。
セシルは、ワイアードのとなりの席に腰を降ろした。
レズリーが深刻な表情を変えずに口をひらいた。
「全員そろいましたね。ではボルグ長官、お願いします」
情報局長官のボルグが、眉をよせながら説明をはじめる。
「各人に連絡したとおり、アルオーズ官房長官が何者かに誘拐された」
みんなの顔が、ひき締まる。




